Mother of the ALL(前)

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 大磯薫子は、大体がおかしな女だった。
 美人だけれどもクラスに馴染まず、休み時間はいつも一人で窓の外を見ていた。ある日髪の毛を金髪に染めてきたと思ったら次の日には黒に戻してくるような女だった。クラスの誰も自ら彼女に近づく事はしなかったし、彼女自身それをなんとも思っていないようだった。これは、彼女に興味のない生徒達の勝手な憶測ではない。俺らクラスメートはいつだって彼女の一挙一動を気にしていたし、彼女の動向をはらはらしながら見守っていた。けれど彼女は俺達のそんな好奇心などものともせずに、ただ自分の世界に漂っていたのだった。




「断る」
 にべもなく荻原勝は言った。食堂から教室まで戻る廊下をすたすたと歩いている彼の後ろを、凛と背筋を伸ばした少女がついていく。
「なんで?」
 少女、安西理子は心外だと言わんばかりに目を見開いた。理子は勝のクラスの委員長だ。三つ編みにした髪を両肩に垂らし、小柄な身体はしかし中心に芯が通っているような強靭なしなやかさを感じさせる。彼女よりも十センチは背の高い勝が大股で歩いているというのに、理子は何故か平然と彼について歩いていた。
「面倒くさいから」
「あら、そんな事はないのよ。部活みたいに毎日放課後集合する必要はないし、実務的な仕事は全て会長がやるわ。副会長はただ必要な時にだけ来てくれればいいのよ」
 安西理子は丁寧に言った。彼女の前では、クラスの女子達の喋り用が馬鹿に聞えてしかたなくなる。安西理子はそれくらい正確に日本語を操る少女だった。そんな彼女の声に引き下がる様子は微塵も見られない。勝は大きく息をついて足を止めた。
「あのなぁ、委員長」
 くるりと振り向くと理子の大きな双眸にぶつかり、彼は困ったように笑った。
「生徒会をやりたいなら委員長が勝手にやればいいだろ? 俺を巻き込むなよ」
 勝は女性には手をあげないし、声だって荒立てない主義だった。ましてや相手がこんな可愛らしいお嬢様では、苛立ちもしゅるると萎んでしまう。
「ま、そういう事だ」
 勝はそう言って手を挙げると、すぐ横にある男子トイレに逃げ込んだ。
「ずるいわ、荻原君」
 男子トイレの入り口に立った理子が非難の声を上げる。男子トイレには、女子にだけ効くバリアがはられているのだ。逆も然り。不思議なものだ。入れるのに入れない。
「早く教室に戻った方がいいぜ。昼休みが終わっちまう」
 勝はひらひらと手を振ると、入り口からは見えないトイレの奥に歩いていった。
 女の子から追いかけられるのは悪い気はしないが、用件が用件ならただの迷惑だ。俺を生徒会の副会長に? 勝は笑った。何をどう考えたらそうなるのだろうか。確かに勝の校内の成績は悪い方ではないが、ずば抜けていいというわけではない。クラス内でリーダー的存在というわけでもなければ、なにか天才的な能力を持っているわけでもないのだ。来年生徒会長に立候補するという安西委員長が、何故自分を副会長にと望むのか、勝は全く理解できなかった。
「さて……」
 腕時計を見ると、昼休みは後十分で終わろうとしていた。委員長はあれで頑固な所がある。恐らく昼休みぎりぎりまでトイレの前で張っているだろう。けれど特に尿意も覚えていないのに長時間トイレにいるのは御免こうむりたい。勝は、小便用の便器の上にある窓に目を向けた。彼の体格ならぎりぎり通れる大きさの窓だ。まったく、まさかトイレから逃げ出すはめになるとは。やれやれ、タケには見せられない醜態だな、と勝は思った。
 便器を足がかりになんとか窓を通り抜け、勝は草地の上に着地した。高さがあったので、飛び降りた衝撃で足がびりりと痺れる。
「うぐぐ」
 勝は低く呻いた。これも運動不足のせいだろうか。最近は、体育以外で運動などしていない。
 授業に出る気は既になかった。次は国語だ。今やってるのは夏目漱石。彼は中学の時に主要な近代文学は読破していたし、授業で形式ばった小説の分析を聞くのは好きじゃなかった。教師の持っているテキストに書いてある事をなぞっただけの講義。あれがもう少し意見を交換できるものであったのなら出席する価値もあっただろうが、残念ながら彼のクラスの国語教師はそのような授業形態を知らないようだった。
 足の痺れが取れてくると、勝はやっと周囲を見渡した。
 すぐ目の前にトイレの窓を外部から隠すように生えた木が並んでいる。あまり人気のない、教室棟と旧棟の間だ。入学して半年以上が過ぎたが、勝はこんな絶好のさぼり場所をこれまで知らなかった。
「ラッキー」
 思わぬ拾いものだ。
 勝はもうそこをサボリ場所と決めて、腰をおろした。
 上半身を校舎に預け、両足を草地に投げ出すと、彼は極めて自然な動作で煙草を取り出した。銘柄にはこだわらないが、今日持っていたのはマイセン。たぶんマイセンと聞いて豚カツの方を思い浮かべてしまう内は、まだヘビースモーカーではないのだ。ポケットをさぐってライターを取り出す。
 くゆる紫煙。
 学校は嫌いではなかった。人といるのも好きな方だと思う。彼の弟に比べれば、勝は自分に正直だし社交性もある方だと自負していた。けれど一人になってこうして煙草なんかをふかしていると、ひどく落ち着くと感じている自分がいるのも確かだった。
 家は嫌いだ。どろどろで、汚い。ただ弟と兄の周りだけを、穏やかな流れが取り巻いている。学校に来ると、その軽い雰囲気に表面だけ触れて安心する。奥まで手を突っ込んでしまうとだめなのだ。学校にだってその芯には重いものが渦巻いている。だからただ撫でるように日々を送る。綿飴のような部分だけを選んで食べている。
 勝は頭を壁に預け、空に向って煙を吐いた。
 青い。
 そこに投げかけられる煙草の煙。人の肺を腐らせる悪魔の煙だ。この煙はきっといつか、あの澄んだ空さえも蝕んでしまうのだろう。いや、空も、実はその向こうは淀んでいるのかもしれない。ただ見えないだけだ。なんだって表面は綺麗なのだ。軽くて、明るい。ふわふわとしている。澄んでいるように見える。けれどそれが内包しているものは濁流のようだ。淀み、歪み、渦巻く。
 その時、勝は煙の向こうにいた人間と目が合った。
 違う。教室だ。二階の教室の窓の向こうから、生徒の一人がこちらを見下ろしている。
 勝は目がよかった。だからすぐに、その生徒が机に頬杖をついて黒い二つの瞳をこちらに向けているのがわかったし、その双眸の持ち主が大磯薫子である事がわかった。勝の教室は教室棟の二階の端である。大磯薫子の席は前から二番目の窓際だった事からも、それが彼女である事は疑いようがなかった。
 勝ははっとして、すぐに煙草を校舎の壁に押し付け火を消した。窺うように上を見開けると、大磯薫子は既に興味をなくしたように窓から顔を離していた。
 見られたのは間違いがない。
 勝は眉をしかめた。まさか大磯薫子が教師に密告するような事はないだろうが、校内で校則違反を犯している所をクラスメートに見られたのは失態だった。
 勝はもう一度教室を見上げた。
 大磯薫子の横顔が見える。
 誰にも心を許していないような変な女。何を考えているのかわからない。彼女にとっては、クラスメートが喫煙してようがしていまいが、全く興味の対象ではないのだろう。
 その時、チャイムが鳴った。
 勝は自嘲を込めたため息をつくと、時間をつぶすべく、ベッドのある保健室へ向った。




 帰りに担任の教師に呼び止められた時、勝は眉をひそめた。六時間目には教室に戻り、通常通り授業を受けた。大磯薫子は教室に戻ってきた勝に特に興味を示した様子はなく、彼女はいつもどおり背筋を伸ばして席についていた。六時間目が終わり、ホームルームが始まる。伝達事項を伝え、担任が解散を指示した後で、鞄を持って帰ろうとしていた勝は職員室へ来るようにと言われた。
 すぐ頭に浮かんだのは昼間の喫煙の事で、案の定、用件はそれだった。
「昼休みにお前が煙草を吸っていたのを見たという奴がいるんだが、本当か?」
「身に覚えがありません」
 しゃあしゃあと勝は答えた。
 放課後の職員室は騒がしい。書類が積み上げられた机の前で教師に叱られるという漫画みたいな状況に自分が置かれるとは、勝には予想だにしない事だった。トイレから脱出してみたり、煙草を吸っている所を見つかってみたり、全く、今日はついていない。
「だが確かにお前だったという話だぞ」
「でも僕じゃありません」
 マイセンもライターも鞄の中に入っている。身体検査をされた時のために制服のポケットから移したのだが、鞄をひっくり返されれば終わりだ。
 担任は目を眇めた。
「ちょっとポケットの中を出してみろ」
 密告したのはよほど教師に信頼のある奴らしい。勝は大人しくポケットの裏地を出して見せた。彼にはハンカチもティッシュも持ち歩く習慣などなかった。
「……一応、鞄も見せてもらうぞ」
 勝は舌打ちをしそうになった。なんだってこいつはこんなに教育熱心なんだ。
 ここで喫煙がばれれば家に連絡がいくのだろうか。弟は呆れるだろう。兄は怒るかもしれない。身体に悪いからやめろと、息子にするように叱ってくれるに違いない。そこまで考えて、本当の父親がどう反応するかを考えると、勝は口を歪めて笑ってしまった。
 目に見えるようではないか。あの男は何も言わない。ただ顔をしかめて、ゴミでも見るような目で息子を一瞥するのだ。父の機嫌を損ねる事に怯えているような年はとうに過ぎてしまった。そう考えると、喫煙がばれても特に問題がないように思えた。
「どうぞ」
 鞄を差し出すと、担任はちらりと窺うように勝を見上げた。あまりにあっさりと渡したので意外に思ったのだろう。彼はまるで家宝の壷を受け取るように注意深く鞄を受け取り、膝にのせた。その時、勝の後ろから声が掛けられた。
「先生」
 振り向いて、勝はぎょっとした。
「煙草を吸っていたのは荻原君じゃあありません。三年生です」
 大磯薫子だった。
 そのにきび一つない白い肌を初めてこんなに近くで目にした勝は、思わず一歩後ろに下がっていた。いつの間に後ろに立っていたのか、全く気付かなかった。彼女は告発者に見られる卑屈な雰囲気を少しも漂わせず、ただ事実を述べる弁護士のように凛として言葉を紡いだ。
「上履きが緑でした。だから荻原君じゃありません」
 教師にもやはり掴みきれない生徒だと認識されていた彼女のこの弁護には、担任も驚いたようだった。膝においた勝の鞄の存在など忘れたかのように、大磯薫子に見入っていた。
「……見たのか?」
 担任はかろうじてそう言葉を吐き出した。
「はい。私の席は窓際ですから」
 彼女の言葉は、それを操っているのが彼女であるというだけで、紛れもない事実に聞えた。担任はばつが悪そうに目を彷徨わせた。どうすべきか考えているのだろう。そして三十秒ほど逡巡した後、膝の鞄を勝の方に差し出し、「帰っていいぞ」と叱られた子供のように言った。



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