Mother of the ALL(後)

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 何のお咎めもなく職員室から出てきた勝は、後ろ手に職員室の扉を閉め、前を歩く大磯薫子を見た。彼女の手には鞄がある。このまま帰るつもりなのだろう。
「大磯さん、職員室に何の用だったの?」
 勝は聞いた。
 彼は不思議だった。何故、彼女がわざわざ自分をかばったのか。しかも嘘をついてまで。だって彼女は見ていたはずなのだ。勝の顔を。くゆる紫煙を。
 知りたいと、強く思った。
 理由を知りたい。何故彼女は俺をかばった? ただの気まぐれなのか? 処罰を受けようとするクラスメートを、哀れに思ったのだろうか。
 立ち止まりはしたものの、大磯薫子はしばらく何も言わなかった。勝には、まるで気が遠くなるほど長い時間に思えた。
「……大磯さん?」
 勝がそう怪訝そうに言ったのは、彼女の肩が震えているように見えたからだ。まさか泣いているのかと、彼は少し慌てたが、それが杞憂であった事はすぐに知れた。
「っはは。ははは」
 その笑い声に、勝は耳を疑った。
 大磯薫子は身をよじり、たまらないといった様子で鞄を持った手を口にあてて笑った。
「あははは、ははは」
 それは決して馬鹿笑いではなかったけれど、勝を呆然とさせ、少し不愉快にさせるだけの効力はあった。しばらく笑い続けた彼女がようやく笑いをおさめた頃には、勝は眉をひそめて突っ立っていた。
「なに?」
 馬鹿にされた気がしてならない。勝はぶっきらぼうに言った。
「はは、ご、ごめん。だって、…おかし」
「だから、何が?」
 女性に優しくを信条とする彼ではあったが、今はその信条を忘れていた。不愉快な様子を隠す事なく彼はもう一度聞いた。しかし同時に内心驚いてもいた。大磯薫子は、こんな風に笑う女だったのだ。快活に、年相応の少女のように。
「……ん……いいの。なんでもないわ。ええ、大丈夫」
 何が大丈夫なんだか。
 ようやく完全に笑いを押さえ込んだらしい大磯薫子は、今度は微笑んで勝に向き合った。勝は一瞬言うべき言葉を見失ってしまった。もしここにクラスの人間がいたら、飛び上がって驚くだろう。あの大磯薫子が、少女のように微笑んでいるのだから。
「えーと、職員室に何の用かって? そりゃもちろん、荻原君を助けに行ったに決まってるわ。ああ、礼はいらないわ。だってこれから長い付き合いになるんだもの。いつか借りを返してくれればいいの。だから気にしないでね」
 意味がわからず、勝はいっそう眉間の皺を深くした。
「どういう事?」
「そのうちわかるわ。ああ、でも。煙草はほどほどにしなさいね。身体に悪いわよ」
 彼女はまるで母親のようにそう言うと、後はもう何も話す事はないと言わんばかりに踵を返し、すたすたと歩いて行ってしまった。呼び止めるタイミングを失った勝は、ただ呆然とその背中を見送った。
「……どゆこと?」
 勝が彼女の言葉の意味を理解するのは、実に一ヵ月後、兄有正に、その恋人を紹介された時だった。
 よろしく。
 そう言った彼女は、教室で見る彼女からは考えられないくらいに、幸せそうな笑顔を見せた。




「さぁさあの時の借りを、今返してもらいましょーか」
「ああん? 何年前の話をしてるんだお前はよ」
 太陽が傾きあたりが鮮やかな色に染まる夕刻、彼らは駅前の喫茶店にいた。
 勝はだるそうにテーブルに頬杖をつき、ストローでオレンジジュースをずごごと吸い込んだ。
「五年くらい前かしら。懐かしい思い出ね」
 そう言って微笑んだ薫子は、その膝に子供を抱えている。彼女の笑顔はかつて勝を絶句させたものと同じもので、娘を産んで母となっても、少女のようなその笑顔は変わっていないようだった。彼女の膝に座った小さな娘は、口の周りに生クリームをべたべたとつけてケーキと格闘している。名前を猪子と言う。その名前を聞いた時、勝は本気で姪っ子でもあるその赤ん坊に同情した。ネーミングセンスのない母親を持つという事は、とても大変な事なのだとしみじみと感じ入ったものだった。
「五年間分の利子もこれでチャラにしてあげるって言うんだから、お安いものじゃない。何も一日預かってくれって言ってるんじゃなし」
「馬鹿かお前は俺の家が子供預かれる環境かっつーの」
「だから武士君に、あんたからも頼んでくれって言ってるの」
 結婚を反対され家を出た有正と薫子は、しかし時々荻原家の兄弟と連絡を取り合っていた。去年赤ん坊が生まれた時などは、勝と武士は知らせを聞いてすぐ病院へ駆け込んだ。その武士はと言えば、去年父親に勘当され、家を出ていた。今は高校もやめ、仕事をしながら恋人である多岐佳奈子と同居生活を送っている。同棲でなく同居なのは、彼女の祖父も一緒に住んでいるからだ。うかつに手を出す事もできない。勝は、弟の現在の境遇に心から同情していた。拷問じゃないか。
 そして今日、勝を呼び出したのは薫子の方だった。会うのは一年ぶり、つまり猪子が生まれて以来である。開口一番、薫子は猪子を預かってくれと勝に言った。なんでも今日は結婚記念日で、今夜は有正と二人、恋人時代に戻ってディナーをすると言うのである。
「大丈夫よ。そんなに泣かないし、十時には迎えに行くし」
 勝は頬杖をついたまま、ついにフォークをほっぽりだして素手でケーキに挑み始めた姪っ子を見た。どことなく、薫子よりも兄に似ている。真面目にケーキに向かうその姿は凛々しく見えなくもない。
 勝は小さくため息をつくと、仕方がないな、と言った。
「もうすぐ武士達も着くと思うし、自分で頼めば?」
 先ほど薫子にせがまれて勝は武士に連絡をいれていた。今日は日曜日なのでデートの途中だったようだが、猪子がいると言うと、電話口の向こうで武士の恋人が歓声を上げた。彼女のその声を聞きながら、そういえば初めて会った時もなんか小学生にかまってたなぁ、と勝はなんとなく思い返していた。一年前である。
「だから、あんたからも頼んでよね」
 薫子はもう一度念を押すように言った。
 その時勝はふと思い出した。
「そういえば、あん時お前なんで笑ったの?」
 勝は顔を上げ、正面から薫子の顔を見た。一方薫子は、あーもう猪子ー、とか言いながら紙ナプキンで娘の手と口の周りをふいてやっている。立派に母親だ。子供を生めば、女は誰でも母親になるのだろうか。
「何? いつ?」
「五年……いや、六年前だなあれ。その、貸しができた時」
 生クリームのついた紙ナプキンを丁寧にたたみながら、薫子はああ、と笑った。
「あれね」
 猪子が、口をあけて母親を見上げている。母親が笑っているのが嬉しいのか、彼女も笑って抱っこをねだるように両手をあげた。
「だって、同じだったんだもん」
 娘を抱き上げてやりながら、薫子は言った。
「何が?」
「有正さんと、セリフが」
 勝は軽く顔をしかめた。しかし薫子はそれに気付かず、愛おしげに娘を見ながら続ける。
「初めて会った時に有正さんが言ったのも、『何の用だったの?』 だったわ。おかしかったぁ。やっぱり兄弟なんだって思った」
「……あっそ」
 勝は興味を失ったように窓に目を転じた。すると丁度目の前の駅から、弟とその恋人が現れた所だった。
「来た」
 勝が言うと、薫子も顔を上げた。
「あ、本当。やだー佳奈子ちゃんかわいーわかーい。武士君もいい子ゲットしたわよねー。早く結婚すればいいのに」
「いや法律上無理だから」
 武士はまだ十七だ。結婚するにはまだあと一年の月日がいる。
「そっかぁ。残念。そういや、あんたは?」
「あん?」
 勝は片眉を上げて薫子を見た。彼女は笑っている。にこにこと、まるで、息子に恋人の有無を尋ねる母親のように笑っている。
「いい人いないの?」
 勝はわかっていた。
 たぶん、この女にとって、武士や勝は息子のようなものなのだろう。かつては有正が父のように兄弟を育ててくれた。その兄から兄弟の話を聞いていた薫子はきっとずっと、二人を息子のように感じていたのだ。
 勝は嘲笑したい気分にかられた。しかし喉元まで来ていた言葉を飲み込み、ただ肩をすくめて冗談を言った。
「俺は一人の女に縛られない男なんだよ」
 よく言うわね。
 と、旧姓大磯薫子は魅力的に笑った。



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