野菜料理

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 魔女は、闇の中にいた。
 完全な闇ではない。淡く光るのは魔女の体とその目前で重力を無視して浮かぶ銀の鏡だ。
 鏡は魔女の手よりも少し大きいくらいの手鏡で、その装飾はそれだけで小さな村ひとつ買えるのではというほどに見事だった。
「鏡よ鏡。私の憎っくき娘たちを映すがいい」
 魔女は恍惚とした表情でそう言った。
 夫が攫われ、きっとあのムカつく娘共は動揺しているに違いない。取り乱しているその様子を見てあざ笑ってやるのが魔女には楽しみで楽しみでしかたなかった。
 鏡の中に映っていた深遠の闇がぐにゃりとゆがんだ。
 魔女は思わず身を乗り出す。
 そして映ったのは。
「うっわーくっらー」
「きゃああああああああああ!!」
 誰もいなかったはずの背後からの声に、魔女は思わず悲鳴を上げた。
 魔術で部屋の灯りをつけて慌てて振り向き、魔女はぽかんと口をあけ、絶句した。
「な、なんで……」
 そこには今頃夫がいないことで取り乱しているはずの三人の姫君がいた。
 シンデレラ、白雪姫、眠り姫の三人である。
 彼女達は外見よりも機能性を重視したズボンに麻の上着といった格好でありながらも、それはその美しさを損なうものでは決してなかった。白蓮は後ろで一つに束ねた黒髪を手ではらい高慢な様子で魔女を見ており、新那はきなれない服が居心地悪いのかむずむずと身体を動かしていた。新那の手にはなにやら細長い布袋が握られている。早苗は突然ついた灯りを不思議そうに見て言った。
「便利ねぇこれ。うちにも一つ欲しいわ」
「な、あなたたち……何を……どうして……」
 魔女は目の前にあるものが信じられないかのように首をふると、まだ空中に浮いていた鏡をばっと取ってそこに映っているものと目の前の光景を見比べた。
 同じ光景だ。
 口の端を上げて白蓮が高慢に笑い、新那も身体を動かすのをやめて魔女を見ている。早苗だけが緊張感のない様子で物珍しげに魔女の部屋を見回していた。
 そこは書斎のようだった。
 部屋の壁は全て本棚でうめつくされており、その本棚は古い本で埋め尽くされていた。おそらくこれを全て国の図書館にもっていけば涙を流して感謝されるだろう。早苗はふと目をやった本が世界に六冊しかないと言われる魔道書だと気が付いた。確か占い師の老婆の家にもあった本だ。
 古い本特有のきついにおいが鼻につく。
「あら、あなた私達を招待してくださったのではないの? ほら招待状」
 そう言って、白蓮は一枚の紙切れを指ではじいた。
 魔女はひらりと落ちたその紙を見てはっとする。
 紙には 『あなたの夫はいただいたわ。魔女より』 と書いてあった。
「その紙から、赤の魔女殿がそなたの魔術の軌跡を追われたのじゃよ。墓穴を掘ったな」
 新那が目を細めて艶やかに笑った。
 あの老婆とこの魔女の魔力は互角である。しかし魔女は老婆よりもやや短絡的だった。その若さゆえか、目先のことに気を取られて先を見失いがちなのだ。
 魔女はぎりりと歯をかみ締めた。
「あのババァ……!」
 およそ淑女の出すものではない悪態に、白蓮は声を上げて笑った。
 その仕草は細く伸びやかな手を口に当てる様子もつんと顎をあげた様子も優雅で華やかだった。
「ほほ。下品な女ね。こんな女を一時期とはいえお母さまと呼んでいたなんて恥ずかしいわ」
 そう言われ、しかし魔女は逆に冷静になったようだった。
 手に持った鏡を背後のテーブルに静かに置くと、そこに両手をつき姫君たちに背を向けて、気を落ち着けるように息を吐く。
 落ち着け……落ち着くのよ……。
 魔女は自分に言い聞かせた。
 この三人はどうせ魔術の魔の字も知らない素人なのだ。何も恐れる事などない。
「『割れよ』」
 パリン!
 突然手元の鏡が割れて、魔女はひっと息を呑んだ。
 ばっと振り向くと、魔道書を手にした早苗が驚いたようにこちらを見ている。
「ご、ごめんなさい、お母さま。少し試してみただけなのに、まさか本当に割れてしまうなんて」
「な。な。な」
 本当に申し訳なさそうに謝罪した昔の娘に、魔女は声を失った。
 早苗が手にしている魔道書は専門用語ばかりの上級魔術師用の魔道書だ。素人が試しにできるようなものではない。昔一緒に暮らしていた頃から早苗にはあるいは魔女の素養があるのでは思っていたが、まさか。「大丈夫? お母さま。お怪我をされたのではないですか?」
「『っ行け!!』」
 魔女は三人の姫君を指差すと、そう叫んだ。
 すると三人はぱっとその場から消えた。
 魔術だ。
 魔女は肩で息をしていた。
 あの人間達。
 計り知れない。
 王子どもといい、あの娘達といい。
「……頭いたい」
 魔女は思わずこめかみを押さえたのだった。




「あら?」
「お?」
「む?」
「あれ?」
「え?」
 五人の声が重なった。
 そして一瞬時が止まる。
 ……。
 ベッドの上に突然現れた白蓮と新那に、部屋の中に閉じ込められていた三人の王子は一瞬言葉を失った。いち早く立ち直ったのは、鳥子だ。
「なんだわざわざ迎えに着たのか白蓮。そんな寂しかったのかほら僕の胸に飛び込んでおいで」
 そう言って両手を広げた夫に、白蓮は柳眉を逆立てて怒鳴った。
「うるさいこの浮気者がぁ!!」
「新那さんっ僕嬉しいですぅぅぅ」
「男が泣くでないぞ王維」
 なんだかんだ言ってひしと抱き合った二組の夫婦を前にして、ぽつんと残った広路は両手をわなわなとさせた。
 何故だ。
 なぜこの感動的な再会の場面に、彼女がいないのだ。
 自分の妻だけがいないのだ。
 広路は叫んだ。
「早苗ー!!!」
 そして次の瞬間、その場から広路がぱっと消えた。
 再会を喜んでいた二組の夫婦は、しばらく三人目の王子が消えた事に気付かなかった。




「えぇぇぇ……え?」
 叫びの余韻を残していた広路は、自分の身に起こった、というか周囲に起こった変化に気付き口をつぐんだ。
 あのムカつくバカップル二組がいない。というか部屋がいきなり広くなっている。
 何が起きたんだ?
「広路さま」
 止まる。
 この声。
 まさかという思いと共に振り向くと、そこには求め続けた女性がいた。
「早苗!」
 広路は驚きと喜びに感極まり、その場で早苗を抱きしめた。
「会いたかった……」
「私もです。広路さま」
「でもどうして。早苗なんかしたの?」
 広路が身体を離して妻を見ると、彼女はにっこりと誰もを和やかな気分にさせる笑顔を向けた。金の髪も灰色の双眸も白い肌も、なにもかも昨夜おやすみのキスをした時と変わったところはない。
 彼女のその手には先ほどの魔道書があった。
「呼び寄せの魔術っていうのを試してみたんです。うまくいってよかった」
 広路は今度こそ驚いた。
 妻に魔術が使えたなんて、今初めて知ったのだ。
「ならそれで他の奴らも呼べる?」
「ええ、たぶん。じゃあ今から呼びますね」
「いや、ちょっと待った……」
 妻を制止し、広路は考えた。
 数時間とはいえ離れ離れだった所に、今やっと二人きりになれたのだ。この美味しい状況を壊すのは、いかにももったいないと思えた。
「早苗」
「はい?」
 従順に返事をする早苗に、広路は爽やかに笑いかけた。
「無闇に覚えたての魔術を使って、折角一緒になった四人を離れ離れにさせてもまずいでしょ。ここはこのまま二人で行こう」
 もっともらしい理由である。
 早苗はきょとんという顔をして広路を見ていたが、やがて納得したように笑って頷いた。
「そうですね。じゃあ二人で頑張りましょうか」
「ああ」
 これで、何はともあれ二人っきりである。
 たとえここが魔女の城であろうとも、早苗がいれば広路はそれで満足であった。もしここから脱出できなくても彼女と二人きりでいられるのなら何の問題もない。なんならここで暮らしてもいい。ものを呼び寄せることのできる彼女の能力があれば、必要最低限の生活用品も呼び寄せることができるだろう。
 広路は意気揚々とした気分で自分達が今いる場所を見渡した。
「ところでここは?」
 二人がいる部屋は、だだっ広く何もない、ただの白い四角い部屋だった。広さにしてみれば王宮の謁見の間くらいはあるだろうか。隅にある扉の青い色が目を引いた。
「わからないんです。私も気が付いたらここにいて……」
 その時。
 どすーん。
 部屋がびりびりと揺れた。
「あ?」
 どすーん。
 また揺れる。
「な、何でしょう」
 どすーん。
 その音は次第に近づいてきているように聞こえた。
「早苗、俺から離れるなよ」
 妻を背後にかばいながら、広路は周囲三百六十度に耳を澄ませた。
 どすーん!
「そこだっ!」
 彼は扉のある方向へ目をやった。
 同時に。
 どす
 どかん!
 がらがらがら!
 突然壁が大きく崩れ、その向こうから巨大な生き物が現れた。
 約五メートルはあろうかという立派な体躯。鱗に覆われた体に人間の手ほどの大きさの爪と牙。それはあきらかに爬虫類科でありながら、前足をあげ二本足で歩行していた。
 どすーん!
 それがその大きな足を地面に下ろすたび、部屋はびりびりと震える。
 広路はその生き物を、王宮の図書館にあった『古代生き物図鑑(上)』で見たことがあった。
「やだ、かわいい!」
「……恐竜」
 背後にかばった妻の嬉しそうな言葉はとりあえず無視して、呆然と呟いた広路であった。



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