彼女がくれた手紙と言葉

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 草子の両親は先天性的な病気なのだと言った。病名はなんと言ったか。綱は覚えていない。
 手術も間に合わない状況になり近日中の死を予告された彼女は、これまで自分を閉じ込めていた檻から抜け出す事を決意した。
 草子の両親は、生まれた時から病弱で、長く生きないだろうと医者に言われた娘をそれはもう風さえあてにように育ててきたようだった。草子は許可なく家から出る事を禁じられ、学校にも行かせてもらえなかった。彼女の両親は一時でも娘を自分達の目の届かない所へやるのを極端に恐れたのだ。
 しかしそんな努力もむなしく草子は死を突きつけられた。
 彼女は長い間死というものと隣り合わせに生きていたので、それはまるでずっと昔からの知人のようなものだった。だから医者から死を宣告された時彼女は驚かなかった。来たな、と思った。
 彼女は両親に外に出たいと言った。
 死ぬ前に外に出たいと言った。
 最終的に彼女は両親を説得した。彼女の両親は、娘の最後の願いを却下するほど馬鹿でも利己的でもなかったのだ。
「これを、あなたに」
 草子の母親は草子に似ていたけれど、草子よりもやつれていた。この目の前の女性よりももっと、草子は健康的に見えた。生に貪欲だった。ぎらぎらと目が輝いていた。
 彼女が綱に渡したのは、一通の手紙だった。




 綱。
 元気?
 雨は降ってる?
 君は雨が嫌いみたいだけど、私はそんなに嫌いじゃないんだよ。部屋の中から見る雨は窓に水滴を作って、それがとても綺麗に見えるの。雨は私のひとり遊びの一つだったんだよ。
 君は私の病気の事に気付いてても、気付かないふりをしていてくれたね。
 すごく嬉しかった。
 ありがとう。
 いつ気付いたのかな?
 ああ、最初からか。私が履いてたスリッパには病院の名前が書いてあっただろうからね。そう。初めて会った時に私が君に投げつけたスリッパだよ。
 あの時私はね、パパとママと喧嘩して、病院を逃げ出していたんだよ。病室から出る時、服を着替えたのはいいものの靴がどうしても見つからなかったんだ。だから仕方なくスリッパのまま外に出た。外は気持ちよくて、私は自由になった鳥みたいな気持ちで駆け出した。けれどはしゃぎすぎて、すぐに具合が悪くなってしまった。それで蹲ってる所に、君が通りかかったの。
 私はずっと願ってる事があったんだよ。
 私は自分が近いうちに死ぬって事に気付いてた。
 だって自分の身体だもの。わかるんだよ。ああ、死ぬなって。
 そう思った時ね、死ぬのがとても怖いと思った。死ぬ事自体がじゃなくて、このまま、世界に私という存在を刻まずに死ぬのが、とてもとても怖かったの。
 私は刻まなくちゃいけなかった。
 私という存在を。
 世界に。
 誰かに。
 深く関わりたかった。誰かの人生に。
 そんな時君に会った。
 私には時間があまり残されていなかった。だからもしあの時あの場所を通りかかったのが別の人でも、もしかしたら私はスリッパを投げつけたかもしれない。けれどやっぱりね、結局君だったんじゃないかと思うんだ。例えば他の誰かがあの時あそこを通ろうとしても、その人は途中でひったくりにあってそのひったくり犯を追いかけてどこかへ行ってしまって、その後から来た君が通るの。結局、私が会うのはきっと君だったんだ。
 ごめんね。
 私がやった事はエゴ以外の何者でもないってわかってる。
 怒っていいよ。
 私は綱の人生に私を刻み付けたくて近寄って、それで勝手に死んじゃうんだから。
 綱。
 なんて言ったらいいかわからないけど、君みたいに純粋で、鈍感で、真面目な男の子がいるんだっていう事は、私にはとても衝撃だったよ。だって私がテレビや漫画で見て知ってる男の子っていうのはもっとかっこよくてお前は俺が守ってやるぞ! みたいな生き物だったんだもの。
 ああ、悪口じゃないよ? 君に会って私はとても嬉しかったんだから。君の涙はとても透明で、それは雨の作った水滴なんかよりもずっとずっと綺麗だった。あの時私は謝ったね。その時私は、初めて後悔したんだ。君に近づいた事を。だって私は死んでしまうから。ご両親を亡くして泣いてる君を、また置いていってしまうから。
 ごめんね綱。
 一週間前の私には考えられない事だけど、今私は、私という存在が君の中に刻み付けられていなければいいと思ってる。
 君を傷つけるのが怖いよ。君を泣かせるのが怖い。何もしないで死ぬよりもずっと、君に悲しんでなんてほしくない。
 驚きだね。
 この一週間で、私はなんて変わったんだろう。
 私が君の中に入り込むつもりが、君が私の中に深く入り込んで来たんだ。
 綱。
 私の気持ちを君に伝えたくてこの手紙を書いているんだけれど、どう書いたらいいのかわからない。
 君に伝わってる?
 ごめんねさっきのは少し嘘だ。
 私が君に刻まれていなければいいと書いたけど、どこかで私は、その逆を願ってる。
 やっぱり君には私を覚えていてほしい。もし君が私を失って悲しんでくれるのなら、こんなに嬉しいことってない。
 ごめん。自分勝手だね。最悪だ。
 君は十分悲しみを知ってるのに、これ以上君が悲しむ事を願うなんて。
 矛盾してるね。
 今まで、私の中でこんな風に感情が矛盾するなんてなかった。
 君に出会ってから私は色んな事を知ったと思う。
 ねぇ、どんなにありがとうって言ったって足りないよ。
 ごめんねと同じくらいありがとうって言いたい。
 綱。
 君に出会えて本当によかった。
 君には迷惑だったかもしれないけど、私は本当に幸せだと思った。
 綱。
 生きてるってなんて凄いんだろう。
 生きてるっていう事が、私と君を出会わせてくれたんだ。
 綱。
 大丈夫。
 もうなにも心配する事なんてないよ。
 私はこれから死んで、きっと君を守ってあげる。
 守護霊っていうんだっけ? もしそれになれなくて、空の星になっても、どうにかして地上に降りてきて、君を守るよ。
 ああ、その前に君のご両親にも挨拶しなきゃね。きっと君のご両親も君を守ってるから、私も一緒に守らせてくださいって、お願いしなきゃ。
 綱。
 大好きだよ。
 もっと名前を呼びたかった。
 もっと抱きしめたかった。
 願っていたら止まらないよ。
 できる事なら死にたくなんてない。
 けどきっと私は死ぬから、私は何度だって君を思いだす。私の脳に君を焼き付けるように。私の魂に君を焼き付けるように。
 終わりなんかじゃないよ。
 私の君への想いは、きっとこの世界にずっと漂っていく。
 だってこんなに強い想いなんだから、これがこの世界に影響を及ぼさないなんて嘘だ。
 綱。
 ありがとう。
 君のおかげで私は世界に覚えていてもらえる。
 それだけでもう。
 涙が出るくらいに私は幸せだよ。


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