彼女と彼とこの世界

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 学校に行ったら、退学届けは受理されていなかった。武一がわざわざ学校に出向き、もう少し時間をくれるように校長に頼み込んだらしい。
 その日綱は、兄の肩をもんでマッサージをした。ついでの好物のエビフライも譲った。
 そして兄弟達はいつものように食卓に並んで御飯を食べた。
 綱はCDレンタルのバイトをやめ、もっと時給のいいバイトを探してきた。そのバイトのために学校を休んだりしたため、結局出席日数が足りずに留年する事になった。その時ばかりはさすがに静には多いに馬鹿にされた。ただ学費はそれまで綱がバイトして貯めたお金から出したため、武一は特に何も言わなかった。やっと高校を卒業して、綱は一年間バイトに明け暮れた。大学への入学費用を稼ぐためだ。そして見事大学に一年送れで入学した。
 ゆっくりだが、綱は確かに自分の道を選んで進んでいた。
「綱君には恋人はいないの?」
 聞いたのは正平だった。静の夫だ。イギリス日系二世。金髪碧眼の美男子で財力もあるし頭もいい。どうしてこんな男があんな姉にひっかかったのか綱は疑問だったが、最近わかってきた気がする。性格がちょっとおかしいのだ。娘である華子への溺愛ぶりを見れば、おそらくほとんどの人間が彼への見方を百八十度変えるだろう。
 金曜の夜は、結婚した静も夫と娘を連れて実家に帰って来て、六人で食卓を囲むのが習慣となっていた。そして夕飯を食べ終え、皆が居間でごろごろしている時に、突然正平が綱に投げてきたのが、前述の台詞である。
「は?」
 その唐突な質問に、ソファに座りテレビを見ていた綱は片眉をあげて義理の兄を見た。
「なんで?」
「僕は綱君には恋人がいると思うんだけど、シズが絶対いないって言い張るんだ。本当の所はどうなのかな、と思って」
「だからいないに決まってるわよ。だってこいつ休みの日なんて家でゴロゴロしてるかバイトしてるか学校行ってるかよ?」
 居間に敷かれた敷物の上で、華子を寝かしつけている静が言った。華子のベッドはちゃんと部屋にあるのだが、皆がいる場所を離れるのを嫌がって泣くので、まずここで寝かしつけてからベッドに運ぶのである。
「あれ? 下坂さんて綱兄の彼女じゃないの?」
 テレビから視線をうつして言ったのは末っ子の広中だ。
「誰だ? 下坂さんって」
 手に持っていた新聞から顔を上げて長男。
「前に電話がかかってきてたの。僕てっきり彼女だと思ってた」
「おいおい。本当か?」
「違う。あれは友達の彼女」
 身を乗り出した武一に、綱はいささかうんざりした様子で言った。
「じゃあ、綱君の恋人は?」
 首を傾げた義理の兄に、綱は答えた。
「いないよ」
「ほらね」
 どこか得意気に静は笑った。対して不満気なのは正平だ。
「えー。いるよ。いるでしょ?」
「いないってば。はい、もう終わり」
 それだけ言うと、もうそれ以上答える気はないと言わんばかりに、綱はテレビの方を向いた。正平は腕を組んでうーん、と唸った。
「おっかしいなぁ。僕のこういう勘は外れないんだけど」
「姉の目の方がするどいって事よ」
「んー。でも綱兄結構見た目は悪くないし。いてもおかしくないと思うけどな」
「いや見た目の問題じゃないだろ。こいつの性格でだぞ?」
「そうよ。彼女の方が耐えられるとは思えないわ」
 ひどい言われようである。
 綱は無視した。
 草子からの手紙は机の奥に閉まっていた。もう何度も取り出して読んでいるので、擦り切れて色も褪せている。
 草子は今も綱の底に眠っている。草子は確かに、綱の奥深くに入り込んでしまっていたのだ。彼が草子の中に入り込んでいったように。
 綱はよく土手に行った。
 そこで目を瞑ると、今にも彼女の声が聞えてくるようだった。
 やはりどこにもいないなんて信じられない。
 彼女が。
 もうこの世界のどこにもいないなんて、ありえない。
『私の君への想いは、きっとこの世界にずっと漂っていく』
 草子。
 あんたは正しい。
 綱は思う。
 彼女はきっと、この大気の中で生きている。
 そして彼の名前を呼ぶのだ。
 何度でも。
 そのたび彼は、前に進む。
 たとえこれから先綱が誰かを好きになっても、草子の声は世界を漂う。
 その声は、また誰かの中に根付き、彼女は世界に刻まれていく。
 草子。
 世界があんたを忘れるなんて、一体誰が思うだろう。
 彼女は永遠に生きていく。
 この世界の胎動の中で、息づいていく。




 ああ。
 どうか。
 この星が緑で溢れますように。


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