あ、と思う間もなくわたしは茂みのなかに引きずり込まれ、「しぃー!」と吠え声のうるさいペットの犬のように嗜められた。
麗はもう一度こっそりと茂みから顔を出して何かを確認すると、ほっと息を吐いてわたしを見る。美少女は眉間に皺を寄せても美少女であるということを今確認しました。
「円、どうしてこんな時間にここにいるの? 学校は?」
こっちの台詞だ。
「……麗こそ、今日も学校休んだの? ここで何やってるの?」
麗が昨日休んだ理由は家庭の事情ってやつだったと思うんだけど、学校休んで帽子を深くかぶってこんなところでコソコソしているような家庭の事情がなんなのか、わたしには見当もつかなかった。
彼女はワンポイントの入った紺色のカットソーに動きやすそうなジーパンという出で立ちだった。似合ってるけど、少し意外ではある。美少女の私服は、もっとフリルとかレースとかついた可愛いものだと思ってた。偏見で申し訳ないけど。
「うっ……。やっぱり怪しいよね」
「怪しいっていうか……うん」
怪しいですね。
知らない人だったら見て見ぬ振りで通り過ぎようと思うくらいには。
「実はね、弟の後をつけてるの」
「え?」
麗はまたこっそりと茂みから顔を出して大通りの方を見ると、「ほら、あそこのポストの前で喋ってる二人いるじゃない? 小さいのと大きな男二人」と言った。
「あの小さい方、私の弟なの」
わたしは麗と同じようにひょこりと大通りを覗き込んだ。たまたますぐ前を通っていたサラリーマンがぎょっとした顔をしたが、眉宇を寄せただけで通り過ぎて行く。……そのうち通報されそうだわ。まぁ汚点が残る! って騒ぎ立てるほどの経歴でもないからいいけどね!
「中二になって少ししてからなんか柄の悪い連中と付き合うようになっちゃって……、最近も家出してたのよ。それが昨日の朝帰ってきてさ、心配だったから学校休んで私も家にいたんだけど、今朝になってまた荷物持って家を出て行ったから……」
なるほど、こうして尾行しているというわけか。
弟思いの姉ちゃんだな! しかし麗みたいな綺麗で可愛い子には悩みなんかないんじゃないかと思ってたんだけど、そんなことないのね。
「そっか。大変だね」
応援してるよ。とりあえず今はわたし邪魔だろうからおいとまするね! と言葉を続けようとしたのだが、麗はわたしの腕をがしりと掴んで答えた。
「うん。でも実は一人で不安だったんだ。よかった円が通りかかってくれて」
にっこりと美少女が微笑む。
「……うん?」
「一緒に尾行しよう!」
「ええと」
ここはどう答えるべきか、わたしは頭の中を高速で回転させた。
麗は高校に入って初めてできた女友達だ。しかも美少女。優良物件。でも正直、面倒事には巻き込まれたくない。
わたしはポストの前で、麗の弟だという長袖シャツを着た茶髪少年と話している大柄な男を見る。
うーん。スキンヘッドが眩しいわ。グレーのパーカーと黒いパンツっていう若々しい格好だけどスーツ着てたら確実にまー君よりの人だよねってかんじ。弟君は、そのスキンヘッドに茶封筒を渡して、代わりに小さな包みをもらってた。あああ、あれが何かなんて知りたくない!
「あ!」
しかしわたしが何か答える前に、麗は茂みから身体を乗り出した。
「どっか行く! 円、行こう」
そう言って、麗はぐいとわたしを引っ張る。
「え? ええとでも……」
このまま流されてはいけない! と思ってわたしは嘘をつくことにした。
「わたし、その、これから用事があって」
「ええ? そうなの? どうしてもだめ……?」
と麗が上目遣いでわたしを見る。
「もちろんいいよ」
……はっ!
我に返ったが遅かった。
「よかった! ありがとう円。すごく助かる! 弟が家出している間どこに行っているのか突き止めておきたいの」
そう言って、麗はわたしの腕をひいてこそこそと歩き出した。
あああ、やってしまった。
わたしって馬鹿なんじゃないだろうか。とわたしはひっそり思った。
パブロフの犬じゃないんだから、麗に上目遣いされたら「もちろんいいよ」って言っちゃうのどうにかしないと。ううう。でもでも可愛いんだもん! 可愛いのが悪いんだもん!
そう思いながらも、なぜだかわたしは制服姿のまま中学生を尾行する羽目になってしまったのだった。
麗の弟君は大通りから薄暗い路地に入ってどんどん歩くと、やがていかにも怪しげなビルの中に消えていった。それは税理士事務所とかパブの看板が出ている薄汚れたビルで、今弟君が入っていったのを目にしていなければ廃墟なんじゃないかと疑ってしまうような建物だ。
「……こんなところで何してるのかしら」
麗は大きなゴミバケツの影からビルを覗き込みながら言った。
……正直、ここまで警察に補導されずにきたのは奇跡だと思うよ。わたし達怪しすぎる。どうみても学生だし。わたしにいたっては制服のままだし。
けれどわたしはそう言う代わりに麗の疑問に答えてあげた。
「不良のたまり場ってやつだと思うよ。ああいう人達って、こういう、人があまり出入りしないビルでグループ作ってたりするんだって」
教えてくれたのはみさをちゃんだ。
ちなみに孝重郎達は、そういう大きなグループには属してなくって、個人で活動(っていうのもおかしいか?)している不良だった。そういうところが生意気だって言われて呼び出されることも多かったみたい。
でも孝重郎は馬鹿みたいに強かったし、どんな相手にも負けることはなかったんだって。
みさをちゃんは孝重郎のいないところでこっそりとわたしにそう教えてくれた。
『それなのにあいつ、円と一緒にいることが多くなってからはあまり喧嘩しなくなったんだよ。円が巻き込まれたら困るからって』
孝重郎は、いつだってわたしのことを一番に考えてくれていた。
わたしが消えそうな気持ちになっていると絶妙なタイミングで現れたし、欲しい言葉を与えてくれた。わたしにとって孝重郎は、テレビに出てくるヒーローみたいなものだったのだ。
わたしだけの英雄。
「じゃああの中に仲間がいるのね? 私ちょっと、行ってくる」
麗が突然そう言って、すくと立ち上がったのでわたしは慌てた。
「え? ちょっと待ってよ麗」
今にもビルの中に突撃しそうだった美少女の腕を、がしりと掴んで止める。
「やめた方がいいよ。危ないよ」
「でもそれが一番手っ取り早いもの。ちょっと行って、弟をそのグループって奴から外すよう頼んでくる」
「そう簡単にいかないよ。大体、あの中にいるの中学生だけじゃないと思うよ?」
こういう学校の外で作られるグループっていうのは大抵高校生が主で、中学生はその予備軍てゆうか下っ端な扱いになっている。それでバックにはいわゆるまー君よりの人達がついているのだ。
まー君が今のところに就職したのもそういうコネがあったからだって聞いてる。グループに属してなくても、孝重郎達の強さは有名だった。
「別に喧嘩をしにいくわけじゃないもの。お願いするだけよ」
「駄目だよ、危ないって」
ううう。美少女ってこういうところが困る! たぶん他人が自分のお願いを聞いてくれることに慣れているのだ。(わたしもその魅力には逆らえ切れなかったのだけれども!)でもあのビルの中にいる連中はたぶんタダで麗のお願いを聞いてくれるような連中じゃない。麗くらい可愛かったら代わりにあんなことやそんなことを要求されちゃうかも!
あああ、そんなこと絶対に駄目!
「やめといた方がいいよ絶対」
「最近うちの母親、本当に参っちゃってるの。弟には早めに更正してもらわなきゃ。円はここで待ってて。大丈夫よ」
だからどこからくるんだその自信は! いい加減わたしが少しイラっとしたその時だった。
「何やってんだ? お前ら」
と後ろから声がかけられた。
聞くに堪えないような男のダミ声だ。少なくとも、聞き覚えのある声ではない。
わたしが青ざめて振り向くと、そこにはこの辺りでは有名な不良高校の制服を着た男が三人立っていた。男の一人が「おお、美人じゃん」と嬉しそうな声を上げる。
「何どうしたの? 道に迷った? 俺達んところでちょっとお茶していく? すぐそこのビルの中なんだけど」
とその男がにやにやと笑って言う。
「あ、あの!」
と声を上げたのは驚いたことに麗だった。
「弟に、会いにきたんですけど」
「弟?」
「はい。清水幸宏っていいます。さっき、このビルの中に入っていったんです」
「へぇ、ユキの姉貴か」
「え? あいつこんな美人の姉ちゃんいたの?」
「いいぜ、中まで案内するよ」
そう言ってこちらに近付いてくると、男達の一人が気安く麗の腰に手を回そうとしたので、わたしは思わず横からその手をはたいていた。
「ああ? なんだてめぇ」
……うん、よし。
あんたら三人が麗よりも手前にいたはずのわたしにまったく目もくれなかったのは仕方がないとしよう。そりゃしょうがないよね。片や私服姿の美少女で、片や冴えない黒髪三つ編み眼鏡の女子高生だもんね。
その外見的ギャップのおかげでわたしだけは空気のように見過ごされそうだったけどそうは問屋がおろさないよ!
「わたしも一緒に行きます。彼女の友達です」
「円……」
麗が少し申し訳なさそうな、けれど安堵も見える複雑な表情で言う。
うん。だって、こうなったら後に引けないじゃないか。
それに孝重郎だってきっとこうしたはずだもの。
彼は決して、友達を見捨てるような人ではなかったから。