「……どうしてあんたがここにいるの? 舜」
ぼやーっとした視界の中で目の前に現れた顔にわたしは問うたわけだけれども、馬鹿眼鏡はそれを無視して怒鳴りつけてきやがった。
「どうしてお前はこういうことに巻き込まれるんだ!」
知らねぇよ!
こっちが聞きたいよ!
と心の中で怒鳴り返しておくにとどめたのは、口の中がずきずきと痛かったからだ。どうやらさっき馬鹿男スズキに殴られた時に切ったらしい。あいつ本当に生まれてきたこと後悔させてやるからなくそイテテ。
「その顔はどうした。殴られたのか?」
傷ついたか弱い女子をいきなり怒鳴りつけた馬鹿眼鏡は、はっと気付いてそう聞いてきたが、すでにへそを曲げていたわたしはそれを無視することにした。
どうやらここにやってきたのは舜一人ではないらしい。だってあっちこちから不良達の苦悶の声が聞こえてくるし。
「誰だてめぇら……ぐぇ!」
「ふざけんな……ぎゃあ!」
「よそ見してんじゃねぇ……べぶふ!」
ぼやけた視界の中では何が起きているのかよくわからないが、その声だけでも不良達がメッタメタにやられているようなのは感じ取れる。え? 何? ケンシ○ウでも来てるわけ? と思ったけどそうじゃないとすぐにわかった。
「はい、お前ら全員死刑ね。死刑。死刑。死刑。残念。来世でがんばれ」
「おい、みさを。やりすぎるなよ」
「うーん、やっぱりスーツは喧嘩に向かないな。動きづらい」
彼らの声を聞いてわたしはやっと安堵した。
舜には悪いけど、眼鏡一人増えたところでこの場をどうにかできるとは思えない。けれどこの人達がいるなら話は別だ。
だってわたしは彼らの恐ろしいほどの強さを知っている。互いに背を預け、拳を振るう時の美しさを。
「まーく……」
わたしが彼らの名前を呼ぶ前に、不良達の一人が彼らの正体に気付いたようだった。
「おい……まさか、この人達、伝説の『死のカルテット』じゃねぇか!?」
「は? そんなわけねぇだろ! 三人しかいねぇし!」
「いや、俺の兄ちゃんが写真持ってたから間違いねぇ……! 殺戮姫と狂神と破壊王だ……ぎゃふん!」
「誰が姫だって……?」
わたしは少し青ざめた。
今の地獄から響いてきたような恐ろしい声はまー君のものだ。
「あはは、馬鹿な奴。当時なら誠に向かって直接『姫』って言うと死ぬっていうのは常識だったのになー」
ああ、最近落ち着いてきたと思ってたけど、やっぱりその逆鱗は今も健在なんだね。
「俺達の写真が出回ってるのか? 会社に知れたら困るんだが」
とのほほんと言うのは『破壊王』……キヨ君だ。穏やかな外見をしているけど昔コンクリートの外壁を殴って凹ませたとかいう伝説があるらしくそんなあだ名がついている。それ本当なの? と一度聞いたら優しく微笑まれただけだったから本当なのかもしれない。
「だ(ぎゃん!)れ(ぎゃあ!)が(ぐえっ……やめ……)姫だって?(げふぅ!)」
「え、ちょ。待ってまー君人殺しは駄目! ってゆうかみさをちゃんもキヨ君も見てないでちゃんと止めて!」
とわたしが叫んでからやっと他の二人がまー君を止めに入ったようだ。
その間に舜がわたしの手首に巻かれたガムテープを外してどこかに落ちてた眼鏡を拾って渡してくれた。眼鏡をかけたわたしの視界に広がった光景は予想以上のもので、その場にいた不良達は一人残らず死屍累々と横たわっていて苦しげなうめき声を上げており、その中でどうにもちぐはぐな三人の男だけが無傷で立っていた。
ヤクザ、ちゃらんぽらん大学生、サラリーマン……つまり、姫川誠、結城みさを、加藤清雨の三人である。
「まー君、みさをちゃん、キヨ君……」
「円、大丈夫か?」
最初にそう声をかけてくれたのはキヨ君だった。
現在商社で営業マンをしているらしいキヨ君は、皺ひとつないスーツ姿のまま言ってから眉を寄せた。
「……殴られたのか」
おっとそういえばそうだった。えーと、馬鹿男スズキはどこだ? ちょっとしばらく精神的に立ち直れないくらい痛めつけなくては……と思って周囲を見渡すと、一人だけ顔の原型がまったくなくなった状態で床に転がっていた不良の耳にピアス穴があいているのを発見!
ス、スズキ……。
どうやらさっきまー君の地雷を踏んでしまったのはこの馬鹿男だったようだ。
うーん。まー君容赦ないな。わたしが殴る隙間がないじゃないか。たぶん親が見てもこれ誰だかわかんないんじゃないか? というくらいぼっこぼこである。しょうがないから今はこれで許してやるか。その代わり次街で会ったら両目潰す。と静かに誓う。
「まぁこれは別にいいよ。でもどうして皆ここがわかったの?」
わたしは最初に疑問に思ったことを聞いた。
麗は舜とわたしの関係は知らないはずだし、まー君達と面識があるはずもない。
「今日約束してただろ?」
と答えたのは正気に戻ったまー君だ。こちらは少し襟が崩れていたが、すぐに整えられた。
「少し早めに学校に円迎えに行ったら中から血相変えた舜が出てきてさー。もー。お前が不良に拉致られたとか言うからびっくりしたじゃんか」
みさをちゃんが言う。
「……」
わたしは黙って隣に立つ舜を見た。
血相変えてた? わたしが入学早々女子に拉致されていたのを無視したこいつが?
そんな馬鹿な。
「舜は一人でお前を助けに行こうとしてたんだぞ。円。ちゃんと礼は言ったか?」
キヨ君が言う。
みさをちゃんはともかくキヨ君がわたしに嘘つくはずがないし……マジか。
しかし舜は、すでにいつもの無愛想モードに戻っていてわたしの顔を見ようとはしない。
「……ありがとう」
とわたしは小さな声で言った。
のにも関わらず、舜はそれに答えることなくすたすたと歩き出して部屋から出て行ってしまった。
おいおいなんだよあいつ無視かよ。せっかくこっちが礼を言ったのに!
「あはは。照れくさいんだなー舜ちゃんは。かーわいいー。まだおこちゃまだなありゃ」
とみさをちゃんが笑う。
いやあれ照れくさいとかじゃないでしょ。後悔してるんだよきっと。優等生だから大嫌いな女でも助けにこざるをえなくって。ふん。ばーかばーか。舜の眼鏡ばーか。と心の中でわたしは思った。
ほどなくして、麗が開け放されたままの戸口からおそるおそる室内を覗き込んでいるのが見えた。彼女は室内の惨状に目を丸くしたが、わたしを見て「円!」と叫ぶと駆け寄って抱きしめてくれた。
「ごめんね……ごめんね」
「その子、下でうろうろしてたんだ。俺達がもう一歩遅かったら一人で円を助けにきてたかもな」
「麗……」
「ごめんね」
いいよいいよ! 今ぎゅっとしてもらったらふわっといい香りがしてかなりいやされたからもういいよ! と美少女にメロメロなわたしである。
「姉ちゃん……」
あ! 弟のことすっかり忘れてた!
もしやと思って確認したが、どうやら『死のカルテット』の三人は、きちんと殴る相手を判別していたらしい。麗の弟君には、不良達に痛めつけられた以上の傷はないようだった。よかった……。三人が常識のある大人に育ってて本当によかった……。
「馬鹿幸宏!」
「姉ちゃん!」
姉弟の感動の再会である。
うんうん。よかったよかった。やっぱりドラマはこうじゃなくっちゃね。
「ありがとうございました」
麗は三人に礼を言った。
「あの……円の知り合いなんですか?」
「うん」
とみさをちゃんが答える。
麗は弟のことも助けてくれた恩人に対して不審な目を向けるような非常識人間ではなかったのだけれども、明らかに異色の取り合わせである三人の大人に対して親しみを覚えることはできなかったようだ。当然だけど。
「でもどうして樋口先輩が?」
弟君を離した麗がこちらを見てそう言ったので、わたしは首を傾げた。
「え? 麗が舜……樋口先輩に伝えてくれたんじゃないの?」
「ううん。私、綾小路先輩に言おうと思って学校に電話したの。そうしたら行武先輩が出て……行武先輩に助けてくださいって言ったんだけど……」
麗が警察に行かなかったのは、中に弟がいたからだろう。下手すれば停学になるし、わたしだって警察沙汰は困る。ただでさえ留年してるのにこれ以上箔をつけたくない。中学時代ぶいぶい言わせていたらしい熊男ならこの不良どもを蹴散らしてくれると麗が考えたのは不思議じゃなかった。
しかし……なんだと?
「もしかしたら二人もこっちに向かってるかもしれないわ。樋口先輩達車だったから」
なるほど、まー君達は車でわたしを迎えに来てくれていたんだもんね。そしてわたしが拉致されたと聞いて、そのまま車でここにやってきたわけだ。そりゃ徒歩や自転車よりずっと早いわ。
「あいつは来ないぞ」
と答えたのはまー君だった。
「円が攫われたって舜から聞いた時、たまたまそこにあの男もいたんだ。だけどあいつははっきり『俺は行かねぇ』って言いやがった」
まー君はあからさまに不愉快そうに言った。
その『あいつ』って言うのが誰なのかは聞かなくても明らかだ。
『俺は行かねぇ』? おいおい、あいつ。わたしが不幸に襲われるのをなんとかするためにマド部とかいうアホらしい部活作ったんじゃないのか。なんだよ。
いやいや。
別にね? ショックなんかじゃないよ。うん。
だって舜は仮にも兄だし優等生だし、まー君達は何年もの付き合いがあるわけだけど、あの熊なんかはついこの間会ったばかりの他人だし。
うん。こんないかにも面倒ごとって感じの所に来ないのは当然。
人間としてあたりまえだ。
だからなんだか心臓がぎゅうと潰されるようになったのは気のせい。
息苦しく感じるのはまだこの場所の空気が悪いせいだ。
「あ、そうなんだー」
わたしは努めて軽く聞こえるようにそう言った。
そう。
わかっていたことじゃないか。
あいつが別に、わたしのヒーローなんかじゃないってことは。
だから平気。
何でもないことだ。
そうだよね。
孝重郎。