「それで? 君は初めて会った汚らわしくない人間が嬉しくて、当初の目的をすっかり忘れたってわけ?」
テティアトは馬鹿にしたように言った。
「別に忘れてないわよ。よく考えてみれば、外の世界に人間なんて何百人ているわけじゃない。それじゃあ誰が森を穢してるのかどうかなんてわかんないでしょ。だからザーティスから情報を仕入れて、犯人を特定してから討伐に行こうと思ったの」
リースは川で水浴びをしていた。彼女は一日に一回の沐浴を習慣にしている。
下半身を水につけ、剣を構える。
鞘は他の服と一緒に川から上がった所にある樹にぶらさげてあった。テティアトは今は地面の上に足を伸ばして座っていた。彼の足が川に触れるたびに、小さな風が巻き起こる。
リースは剣を一閃した。
テティアトの鼻先で、その切っ先はぴたりと止まる。
飄々とした風の精霊は、まばたきさえしなかった。
リースは微笑んだ。
「どうしたの、テティアト。少し機嫌が悪いわ」
「機嫌? 僕が?」
テティアトは大げさなくらいに驚いた。
「そうよ。うん。今ならあなたを倒せる気がする。勝負しない?」
今までリースは一回だって剣でテティアトに勝った事がない。精霊は手加減という言葉を知らない。死にそうになった事だって、一度や二度じゃなかった。
さすがに最近ではそんな致命傷を負う事はないが、今も身体に傷は残っている。ただリースは、その傷を勲章のように思っていた。
手加減をされる方が嫌だ。
剣は彼女のただ一つ持った矜持だった。
それを与えたのがテティアトのなのだ。
彼女を攫ってきた風の精霊。
殺意を覚えたことだってある。
殺してやると、怨嗟の言葉を吐いた。
けれどそんな彼女さえも、テティアトは綺麗だと言って笑ったのだ。
たぶん、精霊の中でもテティアトは変わっている。
「僕を倒せる? 君が?」
テティアトは嘲笑した。
「夢を見ちゃ駄目だよ。小さなリース。君は君以外の何者にもなれない」
「わかってるわ。私は私のままで、あなたに勝つの」
テティアトは声を上げて笑った。
リースが瞬きをすると、次の瞬間には目の前にテティアトはいなかった。リースはすぐ後ろを見た。神出鬼没な精霊の場所を探し当てるのは、リースが一番に覚えた事だ。
テティアトは水の上に立っていた。浮かんでいる、と言った方が正しいだろう。彼のつま先から、水面が波紋を作って揺れている。彼は手に小枝を持っていて、少し先の鋭いそれが、振り向いたリースの喉元を狙っていた。あと一歩踏み込まれれば、刺さる位置だ。
テティアトは楽しそうに笑っている。
彼らの周りで精霊達が踊っていた。テティアトが手に持った小枝に宿った精霊が、リースの頬にキスをする。
「その人間の少年には気をつけて、リース」
「あなたがそんな言葉を吐くなんて、今日は槍でも降るんじゃないの?」
リースは不愉快そうに口をすぼめた。
「心配しているふりなんて、しなくていいのよ」
それは精霊の性ではない。
まだ来ない未来を憂えるなんて。
しかし彼女の言葉に、テティアトは少し驚いたように目を見開いた。
「心配? 僕が?」
「ああ、そうね。心配なんかじゃなかったわね。わかってるわよ」
リースはふんと鼻をならすと、テティアトの持った小枝を払って踵を返した。小枝に宿った精霊達が歓声のようなものをあげて散っていく。リースは水から上がった。
「リース」
後ろからテティアトが彼女の名を呼んだ。
また馬鹿にされるのかと思ってリースはそれを無視したが、彼がもう一度彼女を呼んだのでリースは振り返った。
「リース」
「何よ」
テティアトは水に浸かっていた。
彼の周囲は水の波紋が出来ていて、彼の髪も揺れていた。
「心配ってどんな感じかな?」
彼は言った。
困ったような、困惑したような感じだった。
リースは眉間に皺を寄せた。
「どんなって……どうしたの?」
そんな事を聞くなんて。
そんな顔。
「テティアト?」
リースは不安になって、また水の中に戻った。テティアトの側に行って、その頬に手を伸ばす。
リースはテティアトに触れられる。それはテティアトが彼女にそれを許しているからだ。
こんな顔の彼を見たことなんてなかった。
精霊はこんな顔をする感情を知らないからだ。
「どうしたの?」
「……いや。なんでもないよ」
テティアトは笑った。
リースがまばたきをすると、もう目の前にテティアトはいなかった。
……リース。小さなリース。あまり危ない事をしちゃだめだよ。お前は僕らのいとし児なんだから。
どこからか声だけが聞こえてきた。
その内容にリースは憤慨した。
「テティアト!」
せっかく心配したのに、またそうやって馬鹿にするのだ。
それが精霊の性だから。
笑う水の精霊を睨み付けて、リースは今度こそ水から上がった。
ザーティスは無口だった。
けれどリースは手ごたえのない精霊よりもずっとましだと思ったし、彼にテティアトの愚痴を話すと胸がすっとした。彼が自分と同じ年くらいの少年であったのも、リースには話しやすかった。
「最悪よね。自分勝手なのよ」
リースは湖の前にうつ伏せに寝そべって右手で水を弾いた。いつもなら彼女がこうするとはしゃぐ水の精霊が、ここにはいないようだ。水はただ玉となって散り、波紋を作る。ザーティスは彼女よりも少し下がった所に座っていて、水で遊ぶ彼女を見ていた。
「精霊ってなんでそうなのかしら。ねぇ、人間ってどんなの?」
リースが顔だけ振り向いて聞くと、ザーティスはその綺麗な顔を崩す事なく答えた。
「弱い。自己陶酔が多くて、馬鹿だ」
二人が会うのは五回目だった。約束をしたわけではないが、リースが湖まで行って少し待っていると、必ずザーティスは現れた。彼は「やぁ」とも「こんにちは」とも言わなかった。ただ黙ってリースよりも少し離れた所に腰を下ろした。
リースには彼のその距離感が心地よかった。
踏み込まず、けれど遠くにもいかない。
掴みどころのない精霊よりも彼はずっと確かな事実としてそこに存在していたし、そうであるのが安心できた。突然消えたりしない存在というのはこんなにも安心するものなのだという事を、リースは初めて知ったのだ。
それにザーティスはリースを茶化したりはしなかった。
リースの目に彼はひどく真面目で純粋に映ったし、辛辣ではあったが嘘つきではないようだった。
リースは笑った。
「容赦ないわね」
「本当の事だから仕方がないだろう」
彼の声にはあまり抑揚というものが感じられなかった。ただ目は真っ直ぐにリースを見ている。それが嬉しくて彼女はにっこりと笑うと、また湖に向き直った。
「ザーティスは優秀すぎるのね」
彼女は頬杖をついて言った。
水面を見ている。今日は風がない。ここには精霊がいない。
「人間の中では優秀すぎるんだわ。綺麗すぎるのよ。私とは逆。私は愚鈍にすぎる。彼らの中では」
「なぜ、森から出ようと思わないんだ」
なぜ。
そんなにも孤独ならば。
「お前は人間だろう?」
外に出れば仲間がいるのに。
リースはごろりと転がって、仰向けになった。両手足を伸ばす。
空が見える。
青い。
テティアトと同じ色だ。
手が届かない。
彼女の中でテティアトは、精霊達は、空と同じだ。
「だってここが家なんだもの」
リースは答えた。
「どうしようもないの。私は一人だけど、ここが家なのよ。私はきっと一生、森を出ないわ」
森の外では生きられない。
彼女はそう思っていた。
だってどうして離れられるだろう。
木々のささやきに囲まれて、土を踏みしめて、育ってきたのに。
「あなただって」
リースは空を見上げたまま、ザーティスを見ないまま言った。
「あなただって、今いる場所を離れようとは、思わないでしょう?」
「全部一緒だと知っているからな」
ザーティスは温度の感じられない声で言った。
「人間は皆同じ構造でできている。全て同じく幼稚で愚かだ」
彼はまるで当たり前の事を話すようにそう口にした。嫌悪感も軽蔑する響きもない。ただ事実を述べただけだ。
彼は、世界の理を知っているかのような声をしている。
リースは肘をついて身体を起こした。ずっと空を見ていたので、目が少しちかちかする。
ザーティスは彼女を見ていた。彼女が見ていない間もずっと、彼女を見ていた。
「私も同じ構造でできているのかしら」
人間だから。
幼稚で愚かだ。
ザーティスは笑わない。ただ少し目を細めた。
「同じだ」
彼は言った。
リースは、少しだけがっかりした。
ザーティスが彼女だけは違うと言ってくれるのではないかと期待したからだ。彼が見下ろしている人間たちとは違うのだと。
「でも」
リースは顔を上げた。
彼の灰色の双眸は、冬のように暝い。
ザーティスが「でも」というのは珍しかった。「でも」「しかし」を彼は滅多に口にしない。少なくともリースと会っている間、彼は一度もその類の言葉を発しなかった。
「でも俺はお前が好きだよ」
ザーティスは言った。
今日は晴れだよ、とでも言うような気安さでそう言った。
リースは笑った。
「ありがとう」
そして同時に、自分はどこまでも精霊に好かれる体質なのだと思った。
彼女は気付いていた。
ザーティスは、人ではない。
一緒にいたらわかる。
人ではないのだ。
擬態している虫と同じだ。
彼は自分の存在を騙している。
そうして生きている。
リースは目を瞑った。
自分たちは一対だ。
彼女は気付いていた。
交換された子供。
テティアトはずっとそう言っていた。
僕はお前を交換してきたんだ。
ならばいたはずなのだ。
リースと同じ、孤独を抱えた精霊の子供が。
この世界のどこかに。
ずっと。
ああ。
リースはため息をつく。
「私も、会いたかった」
彼女は泣いていた。
空気が動いたと思ったら、唇に柔らかい感触が触れる。
リースは目を開けた。
ザーティスは一度も、リースから目を逸らさない。金色の髪が、太陽の光に透けて見えた。
リースは笑った。
「何の祝福?」
口付けは、精霊にとっては祝福だ。
「親愛の証だ」
「そうなの?」
「人間の中では」
「素敵ね」
リースもザーティスに口付けを返した。
暖かかった。
風が触れるような、精霊の口付けとは違った。
彼には生身の身体があるから。
「不思議」
「もう一回」
リースは笑った。
「何回やってもいいものなの?」
「何回やってもいいものなんだ」
ザーティスは真面目な顔で頷いた。
リースはまた、ザーティスに口付けをした。
鳥が鳴いた。