そういえばこうやって出会ったんだ4

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 妻の部屋で見知らぬ男が浮遊していても、ザーティスはさして驚かなかった。
 たださすがに眠る妻の枕元に自分以外の男がいるのが不愉快だったのか、彼は眉宇をひそめた。
 男は足が地についておらず、しかし口付けをするように身体をかがめて妻の寝顔を覗き込んでいた。眼の色はよく見えないが、髪は青い。ザーティスの目にそう見えるのは、妻から繰り返し、彼女の精霊の特徴を聞かされたからだろう。
 青い髪に青い目の、風の精霊。
「近すぎる。離れろ」
 ザーティスは戸口から動かないまま言った。
 精霊は帝王に顔を向けないまま、喉だけ鳴らして笑った。
「狭量な男だね」
「妻に近付く虫を払うのも夫の役目だ」
 テティアトはやっと顔を上げた。
 正面から見ると、なるほど彼は青い目を持っていた。純粋な青だ。空のような青。
 彼は柔らかく笑った。
「やぁ。話すのは初めてだね」
「お前を殺したいと何度か思った」
 ザーティスが無表情のまま言うと、男は一瞬怪訝そうな顔をしたが、すぐに合点がいったようだった。
「ああ。僕が君を人間の中にほおりこんだから? そういえば忘れてた。人間の中はどうだった? 精霊には住みよい場所だったかい?」
 忘却など精霊にはない。けれど彼がザーティスに対して無関心であった事は確かだった。彼の興味を引いたのは、ザーティスと引き換えに手に入れた銀色の髪を持った人間の娘だったのだ。青褐色の双眸を持った、鉄のようにしなやかな娘。
「なぜ私を選んだ」
「別に、その辺に浮かんでたから丁度いいと思って」
「なぜジーリスを選んだ」
「綺麗だったから」
 この時だけ、テティアトはにっこりと笑った。
「輝きが違ったんだ。泣く声が森にすごく響いた。周りの精霊だってそわそわしていた。いとし児が生まれたと思ったんだ」
 彼はすぐ側で眠る帝妃をもう一度見た。それはもう、彼が攫った時のような赤ん坊ではなかった。月の光を紡いで作ったような髪は長く、肌も赤ん坊のそれではない。けれどテティアトは惚れ惚れと目を細めた。
 輝くような魂を持った精霊のいとし児は、その腹に新しい命を宿している。
「不思議だね。ついこの間森を出たようなのに」
「何をしに来た」
 ザーティスは、いつの間にか帝妃の枕元まで来ていた。
 男の向かい側。その目は真っ直ぐに、風の精霊を睨んでいる。
「また子供を攫いにきたか」
「まさか」
 テティアトは首を振った。
「残念だけど、この子の腹の中からは何も感じない。僕のいとし児は、特別だったんだ」
「では私を殺しに来たか」
 ザーティスを。
 彼女を、
 森から連れ出した帝国の王を。
 テティアトは目を細めて微笑んだ。
 風が吹く。窓も扉も閉まっているのに吹く風は、森の香りを含んでいた。
「そうだと言ったら?」
「殺されてやるわけがないだろう」
 ザーティスはその腰に剣を下げていたが、彼はそれに手をかけようとはしなかった。
 彼はそこで初めてベッドで眠る妻に目を向けた。
「俺が死んだらこいつも死ぬ」
「すごい自信だ」
 テティアトは大げさに目を見開いたが、ザーティスは口の端を上げて笑った。
「これは頭がいい。自分が死ぬ事が、お前への最大の復讐になると知っているだろう」
「……ああ」
 そうかもね、と男は笑った。
「リース」
 テティアトはいとし児の名を呼んだ。
 彼女は目覚めない。
 妊娠してから、帝妃は寝ている事が多い。それも中々目覚めない。ザーティスはそれが心配で、執務中にこの部屋を訪れる事が多くなっていた。そんな時に、この侵入者を見つけたのだ。
「ジーリスは、お前が狂っている事を知っていた」
 ザーティスは言った。
 男は帝妃を見つめたまま、動かない。
 風はまだ少し吹いていて、帝妃の銀色の髪を揺らした。
「お前が精霊としての性を捨て、『リース』に執着し始めたのに気付いていた。だから森を出たんだ。お前のために、ジーリスは私の側に来る事を選んだんだ」
 あんなにも森を愛していたのに。
 ザーティスのしつこい求婚に根負けしたふりをした。ある日突然、「いいわ、一緒になってあげる」と答えた。
「私はあの時ほどお前を殺したいと思った事はない」
「君、本気?」
 テティアトは顔を上げた。
 彼は顔をゆがめて笑っていた。
「君は、リースに全て隠せている気でいるの? あの湖で君が燃やした何人もの死体も、それで君自身にまとわりついた禍々しい穢れにも、この子が気付いてないと思っているの? 森を侵そうとしていた穢れが君によるものだって、この子が最後まで思っていなかったと言うの?」
 あの頃ザーティスは敵が多かった。全てを投げやりにして、それでも周囲と自分の差を見せ付けていた。彼を殺そうとする人間は次々と現れ、その度彼はその人間を森に連れて行って燃やした。
 最初に彼女に会ったのも、死体を燃やした後だった。
 ザーティスにはまだ精霊としての部分が多く残っていて、だから森をも侵す穢れが自分を侵しているとわかっていた。そしてそれならそれでいいと思っていた。
 けれど。
 一目見た瞬間にわかったのだ。
 彼女がそうなのだと。
 自分の一対。
 たった一人の光。
 あの瞬間に、彼の心は奪われたのだ。
「この子が僕に泣きついた事があるよ。あの歳になってからは、一度だけ」
 テティアトが言う。
『テティアト。彼を助けて』
 そう言って子供のように大声を上げて泣いた。
「君を助けてと。穢れに侵され、今にも死にそうな君を」
 彼女が。
「僕は何も言わなかった。けれどこの子が君と一緒に森を出ると言ったのは、そのすぐ後だった。この子は。そうだね、君の言うとおり、僕が狂っているのに気付いていた。けれどそのために森を出たんじゃない。この子は、自分のために森を出たんだ。君を。助けるために。僕はもう、ぎりぎりだった。君を殺してもおかしくなかった。この子を手に入れたいがために、それだけのために」
 けれどそれはもう、精霊ではない。
 だから。
「僕たちは二人とも、この子に救われたんだ」
 テティアトは笑った。
 自嘲気味に。
 ザーティスは何も言わなかった。
「だから僕は今日は、この子の子供に祝福を与えに来たんだよ。あの時の、お礼に」
「ああ」
 ザーティスは何か思い当たったように上を向いた。
「わかった。じゃあ早くその祝福とやらをやれ。そして帰れ」
「やっぱり狭量だね、君」
「無駄口をたたくな」
「はいはい」
 テティアトは布団の上から彼女の腹に手を伸ばそうとした。が、ザーティスが抜き払った剣が彼の首元を狙ってピタリと止まった。
「おかしな事をすれば炎で貴様を焼き尽くす」
「……はいはい」
 テティアトは面倒臭そうにザーティスの剣をどけると、ジーリスの腹に身をかがめた。布団越しに、そこに口付けをする。願いを込めて。どうか。
 この子も、昔同じように願ったのだ。
 どうか。
 彼を救ってと。
 この目の前の、亭主関白で傲慢で腹黒い王様を。
 救ってくれと泣いたのだ。
『テティアト。彼を助けて』
 彼が身を起こすまで、ザーティスはじっとテティアトの一挙一動を睨み付けていた。
 テティアトは肩をすくめた。
「僕のリースに変なことをするはずないでしょ」
「貴様は信用できない」
 その時テティアトは、部屋の壁に飾られていた二本の剣に目をとめて顔を綻ばせた。
「ああ。まだ持っていてくれてたんだ」
 それはジーリスが愛用している双剣だ。いくつもの戦場を、彼女はこれと共に駆けた。そして『戦場女神』と呼ばれるようになった。片方は宝石がいくつも埋め込まれているが、もう片方は装飾がなく、ひどく実用的だった。
「懐かしいな」
 一本はテティアトが最初にどこからか盗んできて与えたものだが、もう一本は彼が自分で造ったものだった。精霊たちに協力してもらい、造り上げた世界に一振りだけの剣だ。彼はそれを、ジーリスが森を出る時に渡した。
「暇を見つけては振り回してる」
「鍛錬をしてるんだろう。さすが、僕らの子だ」
「お前のじゃない」
「正直」
 テティアトはザーティスを見た。今はもうかつてのような少年ではなくなった、大陸の帝王。あの頃纏っていた穢れはもうない。彼の周りには多くの人の信頼と畏怖がある。
「誤算だった。炎の精霊は、一番人間に染まりやすい。僕がその辺に浮いていた君をこの子と交換したのはただそれだけの理由だったけど、なるほど、こんな風に、僕のいとし児の心を奪っていかれるとは思わなかったな」
「用が済んだら帰れ」
「ああ、はいはい。本当は、君の敵意も僕にとっては毒なんだよ。だからそんな睨まないでよ。帰るよ。帰るけど、一つだけ伝言してもらってもいいでしょ?」
「却下だ」
「うわ。心せま」
「帰れ」
「ああ、もう君。本当に、リース、なんて所にお嫁に来ちゃったんだろう……」
 テティアトはため息をつくと、その一瞬の隙をついて、ジーリスの頬に口付けをした。ザーティスは反射的に剣に炎を走らせて一閃したが、もうそこに風の精霊はいなかった。
 ただ後にはかすかに森の香りが残った。あの森の、清浄な香りだ。精霊の住む、実り豊かなディグアの森。
 ザーティスは顔をしかめた。
 断言してもいいが、絶対に、ジーリスは今頃あの馬鹿精霊の夢を見ている。
 そして目覚めたら彼は何度も繰り返しあの馬鹿精霊を聞かされるのだ。
 彼は舌打ちをした。
 本当の所、彼は昔も辟易していたのだ。
 ジーリスは会うたびに彼女の精霊の話をした。彼女の精霊がどんなにか自分勝手で適当で人を馬鹿にしているか。でも時には優しくしてくれる事とか。
 もういい加減にしろと何度思ったかしれない。
 彼女の言う精霊を本気で殺しに行こうかと思った事が何度もあった。
 けれどしなかった。
 それをすれば、この目の前の光は永遠に失われるだろうという事を、ザーティスは承知していた。
『いいわ。一緒に行ってあげる』
 彼女は言った。
 脅迫ともつかない何度目かの求婚の後に。
『でも一つだけ約束をしなさい。私を失望させないで。たとえ何があろうとも、決して、私を裏切らないで』
 彼女の意志を。
 理解してその上で、それを裏切らない。
 誰ももう、無駄に殺さない。
 そう約束をしたのだ。
 そういう、約束だと思っていた。けれど。
「ジーリス」
 彼女は。
 一人穢れに侵され死ぬ事など許さないと。
 彼女はそう言ったのだ。
 あの、むかつく精霊が言うように彼女が願ったのならばそれはそういう意味なのだ。
 どうか。
「ジーリス」
 光は目の前にある。
 その奇跡を、ザーティスは知っていた。
 彼は妻の腹に口付けをした。
 炎の精霊としての彼がもつ祝福の力。
 これで彼らの子供は、風と炎の二つの元素の精霊の祝福を持つ、稀有な存在となるだろう。
 それは誰からも愛される証だ。
「ジーリス」
 彼は早く妻に目を覚まして欲しかった。
 そして自分がどんなに彼女を愛しているかを知って欲しかった。
 自分の愛情表現を彼女が嫌がるのを知っているが、それでも、彼は彼女に伝えたかった。
「ジーリス」
 愛してる。



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