ザーティスは戦闘が始まってすぐに後方へ退いていた。彼は太陽が中天に昇りきる前に戦闘を終わらせるつもりだった。長引いた戦いは死者を増やすだけだとこの長い戦争の中で彼は学んでいた。ジーリスは前衛で戦っていた。彼女の戦い方は相変わらずだ。戦場のあの混乱の中で戦局が見渡せるというのはもはや人間業ではない気がする。彼女以上に 『戦場女神』 の名にふさわしい人間は恐らくこの世にいないだろう。
「……何か動きがおかしくないか? シェンロ」
戦闘が始まってしばらくしてから、ザーティスが傍らのシェンロに言った。後方へ下がってから、ザーティスはずっと 『戦場女神』 の動きを追っていた。
そして何か違和感を感じる。
「さっきからあの女、あれ以上進んでこない」
「は。確かに」
「何故だ?」
質問の形をとりながらも、主人が答えを必要としているわけではない事を承知していたので、シェンロは何も言わなかった。シェンロはザーティスが小さい子供の頃から彼に仕えている。腹心の部下だ。
ザーティスの脳内で戦局図が展開される。
こちらはまだ全ての軍を出していない。三千を前に出し、残りを後方待機の形にしてある。対して向こうは全力二千。鍵となるだろう弓部隊は後方にいるようだ。今回はこれまでのように奇襲兵を別個に控えさせたりといった小細工は見当たらない。
(何をたくらんでいる? ジーリス)
彼女は、まさに戦うために生まれてきたような女だった。
好戦的で、頭の回転が天才的に速い。戦場でよく響く声を持ち、兵士の心をよく掴む。
しかし同時に致命的に人がよかった。
戦闘を好むくせに、戦争を嫌う。
よくわからない女だ。
理解できない。
彼女の戦術もまた凡人には理解できない所にあった。だから、彼女と相対する時はまず自分の常識を崩さなければならない。
なんだ?
『戦場女神』 の作戦は。
あれ以上こちらへ進軍してこない彼女の真意は?
その兵力差で真正面からこちらへ向かってくるその意図は?
なにがある。
同盟軍を、どこに追い込もうとしているのか?
弓部隊に動きがある。
強弓で知られるサヒャン国だが、現在その高名な弓部隊と言えど五百も残っているかどうかだ。こちらでも兵士は固まらせないように配置している。弓による被害などたかがしれているだろうし、それでこちらの軍に致命的な被害を負わせられるとはまさかサヒャン国軍も考えていないだろう。
ではなんだ。
火矢でも射るか?
いや。空気は湿っている。火が簡単に燃え広がるような場所じゃない。
ではなんだ。
そこまで考えて、ザーティスははっとした。
ぱっと顔を上げ、周囲の地面を見渡す。
湿った大地。まさか。
「殿下?」
「シェンロ、すぐに伝令を! 左右両軍共左右に展開、前線の者達は敵を押して前進! とにかく現在いる場所から離れるんだ!」
しかし遅かった。
次に彼が顔を上げたとき、それはもうそこまで迫ってきていた。サヒャン国の強弓によって飛ばされてきたのは、割れやすい風船に包まれた赤い液体。
ザーティスは舌打ちした。
ぱしゃん!
大量の弓矢によって運ばれた葡萄酒が、あたり一面に飛び散った。
「なんだ、あれは?」
「ワインウィード。あれでも植物の一種よ」
向かってきた剣を自分の剣ではじいたサリィスが同盟軍後方に見たのは、なにやら緑色のものに巻きつかれてまごまごしている同盟軍の兵士達だった。
「植物のくせに酒が大好物で、葡萄酒なんかにも目がないみたいね。酒を与えると活性化してあたりかまわず巻きつくのよ。湿った草原によく生えてて、酒を飲むと繁殖力も異様に高まるから切っても切っても生えてくるの」
「……」
なんだそれは。植物と定義してもいいのか?
サリィスは思いっきり困惑した。
「始めにここ見たときから思ってたのよね。ワインウィードの住み着きやすそうな場所だなって」
対してジーリスはにこにこと笑っている。
「さてサリィス。後方がもたついている間に兵を前進させてちょうだい。あ、でもあまり近づきすぎてもだめよ。こっちもあの酒乱草に捕まっちゃうからね。一気に決着を付けるわ」
ジーリスは口の端を上げた。
「あの腐れ男の困った顔が目に浮かぶわねあーはっはっはっは」
彼女は非常に機嫌がよろしいようだった。
ザーティスは博識だ。世界の事で彼の知らない事なんてないのではないかと思われるくらいに博識だ。彼の知識はあらゆる分野を網羅している。もちろん薬草学にも精通している。ワインウィードの事だって知っている。だからこそこの作戦にもっと早く気付けなかったのは、彼には珍しい失態としか言いようがなかった。
「もしかして浮き足立っているのかな。私は」
考え込むように手を顎にあててザーティスは言った。
待ち続けた時が近づいている。その事が彼の集中力を欠いているのかもしれない。
「落ち着いてないでください殿下っっ!!」
足をつる性植物にがっちりと固められながらも冷静に自己分析をする主人に、シェンロは剣を振り回しながら叫んだ。濃い緑色の葉をつけたワインウィードは、アルコールを吸うと近くにあるものに取りすがって茎を伸ばす。シェンロは足を絡め取られないように地団駄を踏みながら、伸びてくる植物を切りまくった。何せ切っても切っても生えてくる。おそろしい生命力である。かつてはそこそこ名の売れた傭兵であったシェンロ=キリアスであるが、植物相手に奮闘する姿はいささか情けないものがあった。
「このっ酒乱緑黄色野菜めが!」
シェンロはいい加減ぶち切れそうになった。
「無駄だなシェンロ。アルコールを吸収したワインウィードに抗するには一つしか方法はない」
ザーティスは極めて冷静に言った。
彼の周囲でシェンロと同じように剣を振り回していた兵士達は、方法があんならさっさとやらんかい!! と心の中で思った。
「ちょっと下がってろ」
命令されて、シェンロは飛ぶように背後に下がった。
ザーティスはすっと右手を上げる。
シェンロはなんだか嫌な予感がした。
「ちょっ……」
彼が主人を止めようとした時だった。
突然、熱気がシェンロを襲った。
ぼっと音をたてたのは炎だ。彼の主人を燃やしている。兵達は動揺した。当然だろう。自分達の指揮官が火だるまになっているのだ。
しかしシェンロは動じなかった。動じなかったというか、おいおいやっちゃったよ、という顔をした。
「切っても切っても繁殖するのなら、自分の周りを火で固めればいいのだ」
火だるまが喋った。
兵士達はひっ、と息を呑んだ。
シェンロはため息をついて首をふった。もはや地団駄をやめている。ワインウィードに抵抗するのは諦めたようだ。
「……殿下。物凄く不気味ですが」
火の向こうで、ザーティスは口の端を上げて笑った。
「火の中に立つ美男子。絵になるではないか」
確かにザーティスは美男子だった。その整った顔立ちは社交場では多くの女性を魅了する。たちが悪いのは、彼自身がそれを事実として理解している所だった。
「さてシェンロ、私はこのまま 『戦場女神』 との一騎打ちに行ってくる」
シェンロは、彼の主人がそう言い出すのを知っていた。何故なら今日は記念すべき日だからだ。公国の者達が待ちに待った日。ザーティスが、求め続けた時。
しかし流石に彼がにっこりと微笑んでこう言った時は、こんな主人に仕えている自分の境遇を本気で悲しんでしまった。
「だから帰ってくるまで頑張れ」
ひどい。
戦場は一時戦闘そっちのけで騒然とした。
「じ、ジーリスさま!」
「どうしたっ」
「ひ、火だるまが走ってきます!!」
「は?」
見ると、確かに炎に包まれた馬と人間が敵軍の方からこちらへ駆けてきている。
戦闘中だった兵士達も走る火達磨を見てぎょっとし、思わず戦闘を中断して道を譲っていた。そして譲った後も、今目の前を通過したものが信じられずに呆然とそれを見送る。待て。おかしいぞ色々と。何で燃えてるんだ? というか何で燃えてるのに平気で走ってるんだ?
「うわー」
まるで呆れたようにジーリスは言った。
「うわーってジーリスさま! なんですかあれなんですか!」
近くの兵士がジーリスに泣きつく。といっても両者とも馬上の人なので、実際にすがり付いているわけではないが。
ジーリスは答えなかった。
火だるまとなった人馬は真っ直ぐに彼女の所に走ってきて、目の前で棹立ちになった。もし目の前に火だるまがやってくれば、普通の馬なら怯えて暴れている。彼女は自分の髪の色と同じ毛色の愛馬を撫でて褒めた。
火はいつの間にか消えていた。手綱を引き、馬を落ち着かせたザーティスに向かってジーリスは半眼で言った。
「ばっかじゃないの?」
「失敬な」
ザーティスは片眉を上げた。
「馬鹿に馬鹿と言われる筋合いはない」
「誰が馬鹿よ!」
ジーティスは目を吊り上げた。そんな彼女をザーティスは鼻で笑う。
「お前以外に誰がいる?」
ジーティスは今度こそかっとして、ひらりと飛ぶように馬を降りた。そしてつかつかとザーティスに近寄ると、ぐいと彼の腕をひっぱり顔を近づける。
「目の前にいるわよこの馬鹿公子! こんな大勢の前で火なんか操ってどう説明つけるつもりよ!!」
彼女は声を押し殺して言った。ザーティスは器用に肩をすくめた。
「人間はそこまで柔軟じゃない。幻覚だと勝手に自分に言い聞かせるだろうさ。戦闘中に幻覚を見るのは少なくない事例だからな」
「だからってね……」
「やめろジーリス」
さらに言い募ろうとしたジーリスを、ザーティスが止めた。彼はジーリスの手を外させると、自らも馬を降りた。二人は対峙する。ザーティスは笑った。
「今日という日に、無粋な口喧嘩はやめようじゃないか」
喧嘩になるような発言を返してきたのはお前だとジーリスは言ってやりたかったが、確かに彼の言うとおりだと思って言葉を飲み込んだ。かわりに大きく息を吐き、自らを落ち着かせる。
「……そうね」
そうだ。
確かに、今日という日は特別だ。
一年という月日は存外に短かったと、彼女は思った。確かにやりたい事をやったが、まだ物足りない。けれど同時に嬉しくもあった。驚くことに、彼女自身も今日という日を楽しみにしていたのかもしれない。絶対に、この目の前の男には教えてやらないが。
彼女は右腰から、左手で剣を抜いた。今までは右の剣だけを使って戦っていたが、本来の彼女は双剣の使い手だ。どちらも細身で、刀の反り具合からも一対として作られたものなのだとわかる。シィカとティカ。名前までつけて愛用しているそれは、ジーリスが自分の身体の一部のように操れる武器だ。
「抜きなさいよザーティス。最後の勝負よ」
ザーティスも腰から剣を抜いた。こちらは軍に支給されている刀身の長いものだ。ザーティスは武器を選ばない。手にした武器に最も適した戦いをする。
兵達は両軍とも剣を降ろしていた。
この戦争の勝敗は、もはやこの二人に委ねられているとわかっていたからだ。いやそれよりも軍人としてこの戦いを見過ごせずにはおれなかった。
幾度となく互いを敵として戦ってきた二人だが、実際に彼らが剣を交えた所を見た者はいなかった。
同盟軍の天才と、『戦場女神』。
どちらも桁外れの強さを誇っている。
見たいと、思わないわけがないのだ。
戦いを糧にする者達が。
この決闘を。
「どれくらいぶり?」
剣を交えるのは。
「一年と三月ぶりだ」
考えもせずに答えたザーティスに、そんなになるのね、と感慨深げにジーリスは言う。
「強くなったか?」
ザーティスはニヤリと口の端を上げた。
「あら、私に勝てると思ってるの?」
ジーリスが微笑む。彼女の髪が揺れる。
「風が吹いてるわ。風は私の味方よ」
「燃やしてやるさ。邪魔なものは全て」
次の瞬間、二人の剣が閃いた。
先に動いたのはザーティスだった。横から風を切ってきたザーティスの剣を、ジーリスが両腕を交差させて開くように弾く。止まらない。今度はジーリスが飛んだ。ザーティスは気配だけで彼女の動きを追って左に避けた。ジーリスはそれを読み空中で体勢を変えて左に切り込む。ザーティスが受ける。
ジーリスの戦いは踊るようだった。銀の髪が揺れ、四肢を伸ばし、舞っているようだ。対してザーティスは鋭い。動きの一つ一つが研ぎ澄まされた刃物のようで、正確だ。
兵達は感嘆のため息をついた。
ジーリスは優美な月のようで、ザーティスは峻烈な太陽のようだった。
そして戦争が終わった。