条約調印の場には、同盟側にザーティス、シェンロ、それに各国の王、サヒャン国側にサリィスとその側近が立ち会った。もともと何の身分もなく一介の指揮官でしかないジーリスは、その場にいる事を辞退した。
今回の戦闘で死者は出なかった。同盟側にはもちろん、サヒャン国側にもだ。ザーティスとジーリスの戦いが終わった時点で、両軍は停戦宣言を出した。ザーティスとの勝敗を決して戻ってきたジーリスに、サリィスは言った。
『つまり、お前をそこまで楽しませる事のできる男だという事か』
それが王の答えだった。
さて、調印はサヒャン国側のテントの一つで行われたのだが、同盟側の出したある条件に、サリィスは困惑した。
「……申し訳ないが、もう一度言っていただけるか?」
「……はい」
こちらもこめかみを押さえながらシェンロは同盟側の、というかザーティスが出した条件を朗読した。
「『一つ、サヒャン国軍総指揮官ジーリスをこちらに引き渡すのこと』」
「……」
しばしテント内に沈黙が流れ、ザーティスは頬杖をついてにっこり笑った。
「何か問題でも?」
ジーリスは迷っていた。
今なら逃げられる。
愛馬はいるし、ザーティスは条約調印のためにテントに留まっている。話し合いをそう早くに切り上げられるとは思えない。チャンスは今しかない。
一年。確かにそういう約束だった。
約束を破るつもりはなかった。実際、つい先ほどまでは約束を果たすつもりだった。
けれどいざ、この自由がなくなってしまうのかと思うと惜しくなる。
初めて世界を見た。
自分の足で歩いて、色々なものに触れた。
もう二度とできないかもしれない。
まだ世界には自分の見てないものがあるのに。
物心ついた時には森にいた。彼女を育てた者達は、彼女が森の外に出るのを嫌った。何故なら外に出れば、彼女は彼女の同胞に出会ってしまうからだ。人間に。
彼女を育てたのは精霊だった。
風の精霊。
彼らは人間の赤ん坊として生まれた彼女を、攫ってきた。
気まぐれだ。精霊なんてそんなもの。悪戯好きで、傲慢で。だから彼女は自分を磨かなくてはいけなかった。ずば抜けた運動能力も、常人離れした頭の回転の速さも、全て生きるためのものだった。
孤独だった。
だから知った時は喜んだ。
自分の代わりに人間の中に落とされた精霊の子供。同じ異端の中で育った子供。同じ孤独を持つ子供。
一人じゃない。
そう思えた。
その子供を想像して眠れない夜があった。
今思えば馬鹿みたいだ。昔にタイムスリップできたなら、そんな無駄な事に時間を費やすんなら剣の練習でもしてろと叱咤してやりたい。
ジーリスはため息をついた。
実際に出会ったその子供は、嫌になるくらいに整った顔立ちとむかつくくらいに優秀な頭とうんざりするくらいに捻じ曲がった根性を持っていた。
他人をゴミだとしか思っていない。自己中心的で、冷血。最悪だ。本当に。
ジーリスは決心した。
よし。
逃げよう。
少し離れた所で一頭だけ、繋がれもしていなかった愛馬を探し当ててひらりと跨る。
「走るよ、ミリア」
馬の名前だ。彼女はジーリスの住んでいた森に迷い込んできた野生馬で、以来ずっとジーリスと走っている。ミリアは大きな目で窺うようにジーリスを見上げた。
「急がないと追いつかれる。港町へ行こう。大陸を出ないと、すぐに捕まるから」
奴の執念深さと容赦のなさをジーリスはよく知っていた。
一度逃げて捕まったりしたら、何をされるかわかったものではない。下手したら一生日の目を拝む事はできなくなるだろう。
「全力疾走よ。町に着いたらたんとご褒美をあげるわ」
決めたからには本気で逃げる。
中途半端は命取りだ。
ミリアがひん、と一度小さく鳴いた。
「行っ」
て。とジーリスが言おうとした時だった。
「本気で逃げられるとでも?」
背後から声。
ジーリスはびくりとして一瞬固まった。
「……」
まさか。速すぎる。
そしてぎぎぎ、と錆びた扉のような鈍さで後ろを振り向く。
彼がいた。
ザーティス=イブ=ジーティス。
彼は微笑んでいた。
「本気で、俺から、逃げられるとでも?」
並大抵の人間なら、土下座して許しを請うてしまいそうな笑顔だった。綺麗すぎるのだ。あまりにも。綺麗すぎて怖い。畏怖。
「えーと。ちょっと散歩に?」
しかしそんな美貌も見慣れたジーリスはごまかそうとした。
「言っておくがなジーリス、俺は欲求不満なんだよ」
ザーティスは笑顔のまま言った。
「一年も禁欲生活を送ってきたんだ。晴れて妻をこの腕に取り戻した今、形振りなど構ってられんぞ。今すぐここで押し倒してやろうか」
「ごめんなさい」
ジーリスは速攻で謝った。
こいつはやると言ったらやる。そう知っていたからだ。
ザーティスは手を伸ばした。
「じゃあ戻って来い」
ミリアがぶるりと首を振る。
「この俺が一年も我慢したんだ。褒美をくれてもいいだろう?」
真摯な目だった。
ジーリスはため息をついた。
なるほど確かに。堪え性のないこの男にしては、よくもったというべきだろう。本当は一年という期限も守られるか怪しいところだったのだ。一年も経たずに呼び戻されると思った。けれど彼は約束を守った。一年間、彼女に自由を与えた。
評価すべき所だ。
彼女は仕方ないわね、とでもいう風にため息をついた。
「いいわ」
ジーリスはザーティスの手をとって、ひらりと馬を降りた。
それが致命的な油断だった。
ザーティスはジーリスの足が地面につく前に右足で彼女の足を払った。体勢を崩したジーリスは地面に倒れこむ。頭を打つぎりぎりの所で、ザーティスの左手が彼女の肩に手を回してそれを止めた。
ザーティスはニヤリと笑った。
「ではいただくとするか」
「っ放せ変態ー!!」
貞操の危機を感じたジーリスの叫びは空に消えた。
少し離れたサヒャン国軍の野営地で、いまだ目の前の状況が信じられない様子のサリィスは言った。彼の視線の先では、なにやらザーティスがジーリスに蹴りをくらっている。
「ジーリスが、公太子殿下妃……ねぇ」
シェンロがどこか感慨深げな面持ちで主人夫婦のじゃれあい……というか喧嘩を見ながら言う。
「長引きそうな戦争を憂えたジーリス様が、色々な国の意見を聞いてくるとおっしゃって城を出奔されたのです」
それがまさか戦争に参加までするとは思わなかったが、逆にそれはいい効果を生んだと言えるだろう。優秀な指揮官の下の戦争は凄惨な結果には終わらない。その上戦場のみとはいえ夫婦が会える機会があった事は、ザーティスによる城の者達への被害を最小限に抑えた。被害とは日々の嫌がらせであったり、無茶な訓練であったり、ぐさぐさと突き刺さるような嫌味であったが、そんな八つ当たりも彼女が帰ってくればなくなるに違いない。
シェンロは長い間曇っていた空が晴れ渡っていくような気分だった。
もう大丈夫だ。私はよく乗り切った。
そう自分を称えてやりたくなった。
「結局私達は公国に踊らされていたというわけかな?」
自嘲気味にサリィスが言った。
王がそう考えてもおかしくはなかった。デキレースのようなものではないか。敵の指揮官とこちら側の指揮官が夫婦だと言うのなら。
シェンロはサリィスを見た。彼の目は冷ややかだった。
「……もし本当にそう思われるのなら、残念ながらサヒャンの王の目は節穴という事になりますね。二ヶ月もあの方と肩を並べておきながら、あの方の最も根本的な性質を理解しておられない」
ジーリスは正直だ。
精霊は嘘をつかない。精霊を前に嘘は無意味だ。だから精霊に育てられた彼女自身、嘘や欺瞞を知らなかった。
デキレースなどできるはずもないのだ。
そもそもそんなもの、プライドが許さない。気高いあの夫婦は、そんな出来上がった勝負などしない。
ジーリスがサヒャン国の側についたという事は、正真正銘彼女はかの国の味方だった。
妻も夫もない。
ただ彼女は『戦場女神』だったのだ。
サリィスは苦笑して肩をすくめた。
「冗談だ。知っているよ。あれくらいいい女は、他にはいないさ」
シェンロはとたん相好を崩した。サリィスはこの将軍に好感を持った。本当に、あの夫婦に忠誠を誓っているのだろう。
「無礼をお許しください」
「いやこちらも失言だった。許して欲しい」
「……」
彼のその言葉に、シェンロは少し考え込むように首を傾げた。
「そうですね。最後のセリフは、少なくとも殿下の前では確実にNGワード入りですね」
「は?」
意味がわからないといった様子の国王に、シェンロは爽やかに笑って見せた。
「気をつけてください。殿下の前で少しでもジーリス様を侮辱、または必要以上の好意を持っていると臭わせる発言をすると命が危険にさらされますから」
……なるほど。あれをあそこまで嫌がらせる男というわけか。
近寄ろうとする夫を蛇蝎のごとく嫌がって殴る蹴るの抵抗をするジーリスを視線の先で見ながら、なんとなく納得したサリィスだった。
その日、『戦場女神』 ジーリスは、ジーティガ公国公太子妃ジーリス=リグリア=ジーティスとして城に戻った。妻がいない間、そのストレスを周囲に撒き散らしていた公太子に甚だ迷惑していた城の者達は、彼女の帰還に狂喜した。
そしてその数年後、同盟国盟主ザーティス=イブ=ジーティスがジーティガ公国の王位を継いだ時、彼は同時に同盟国を統合した帝国の王となる。後の世に長く名が伝わる事となる、始帝ザーティスと、戦場妃ジーリスの誕生である。