帰ると、綱兄がテレビを見ていた。
殴られて腫れてきた僕の頬を見て、綱兄は少し眉をよせてどうしたのかと聞いた。僕は転んだのだと答えた。
その嘘はすぐにばれた。
その夜、学校から電話がかかってきた。
おたくのお子さんがクラスメートに怪我を負わせまして。
あの後、気が付くと僕は田口をもう一発殴っていた。他の二人は逃げ出していた。僕はランドセルを拾い、痛いと泣く田口を置いて家に帰ったのだ。
僕にはまた怒りが湧き上がってきた。
あのクソ野郎のせいで僕が家族の中で気付いてきたイメージがずたぼろだ。
僕は兄達の顔が見れなかった。
結局、その夜のうちに兄弟四人で謝りに行く事になった。
僕の怒りは増長していくばかりだった。
途中で辛うじて開いていた店で菓子折りを買って、田口の家に行った。
表札を見たら、田口ではなく田中だった。
「今日はうちの弟がご迷惑をかけて申し訳ありません」
武兄が頭を下げた。
田口(田中か。どっちでもいいけど)とその母親に。
田口の頬は僕よりも赤く腫れていた。そりゃそうだろう。二回も殴ったのだから。田口は母親の後ろに隠れて、武兄のつむじをにらみつけていた。
僕は、もしここに兄達がいなかったら、また田口の野郎を殴っていただろうと思った。
「まぁ、わざわざすいません」
息子と同じで面の皮が厚いのか、田口の母親は菓子折りを持って笑っていた。
「子供同士の喧嘩なのに大人が口出しをしてしまって……。先生にまで言ってしまって、申し訳ないと思ってますのよ」
「いえ、子供同士の喧嘩でも、子供だけでは解決できない事もあるでしょうから」
「お宅はもうご両親がいらっしゃらないとか……それでは子供の教育に目が行き届かないのも仕方ないですわ」
田口の母親は、そう言ってほほほと笑った。
限界だ。
いくらなんでも。
一体この女は、これまでの人生で何を学んできたんだ。
言っていい事と悪い事の区別もつかないのか。
他人に自分よりも劣っている部分を見つけて笑うのは、小学校のガキと同じだ。いや、子供生んでまでそれをしているのはそれ以下だ。クズだ。
こんな奴に、武兄が、頭を下げるなんて。
怒りでくらくらしてきた所に、武兄の凛とした声が響いた。
「失礼ですが、教育に目が行き届いていないのはそちらの方ではないでしょうか」
「は?」
田口の母親は笑顔を止めた。
武兄は、真っ直ぐに田口の母親の目を見て話していた。
真面目で真剣な顔だった。今朝の、ふざけた様子からは想像もつかない。
そして僕は、武兄のその双眸に、怒りを感じ取った。
「うちの弟は自分から理由もなく他人に手を出すような男じゃありません。弟がそちらのお子さんを殴ったのは、先におたくのお子さんが殴ったからではないんですか?」
「なっ……」
田口の母親は絶句した顔を赤くしたり青くしたりしていた。
田口は目をそらしていた。
「うちの弟は何も言いませんでした。何も言い訳はしませんでした。田中君を殴ったのかと聞いたら、殴ったと答えました。うちの弟の頬にも殴られた痕があります。けれどうちの弟はそれ以外何も言いませんでした。俺達には両親がいないけれど、それで広中に足りない所は何もありません。それは十一年間弟を見てきた俺達が保障できます。この子は賢いんです。一を言えば十を理解します。両親が死んだ頃はまだ小さかったのに、特別俺達の手をわずらわす事はありませんでした。少し俺達が寂しく思うくらいにです。悪いですけれど、少なくとも、そちらのお子さんよりもうちの弟の方が、何倍もいい男です。だから、広中の方から理由もなく喧嘩をしかけたというのは、どう考えてもありえないんです」
それは、明らかにめちゃくちゃな言い分だった。
どうしようもない、まったく主観に満ちた理論だ。馬鹿な人間の言う事だ。
けれど僕は涙が出てきた。
どうしようもなく、涙が出てきた。
隣にいた静姉が手を握ってくれた。
暖かかった。
「な、な、な、なんて失礼な……。見なさい! この子の頬! そちらのお子さんよりもずっと腫れているわ! それなのにこっちを悪者にしようなんて! ねぇ? 隆志、あっちの子が先に殴ってきたのよね?」
母親その場にしゃがみ、宥めるように田口に言った。
しかし田口は、視線をさまよわせるようにして最後に僕を見ると、母親に向かって叫ぶように言った。
「ぼ、僕、そんな事言ってない!」
そして田口は家の奥へ走って逃げた。
母親は、呆然とした。
「田中さん」
言ったのは綱兄だった。
「私達が欲しいのは、どっちが悪者かとかそういうことじゃないんです。ただ、うちの弟に謝って欲しいんです。喧嘩両成敗と言うでしょう? 今回はうちの弟も悪いし、そちらにも落ち度はあった。それを認めていただきたいんですよ。弟の前でね」
僕は目から溢れる涙を止められなかった。
田口の家で大声で泣くのは癪だったので、声を押し殺して泣いた。
手をつないだ静姉の手の暖かさが伝わってきたように、僕の胸も温かくなった。
武兄の怒りと、綱兄の言葉が嬉しかった。
結局田口の母親は一言も謝罪を口にしなかったけど、僕らはそのまま帰路についた。
その帰り道、静姉と手を繋ぎながら、僕はずっと泣いていた。
そういえば、父さんと母さんが死んでから、僕は泣いた事がなかった。
まるで七年分の涙を流しているかのように、僕は泣いた。
「あーあ。ったく。あんな母親がいるから、あーゆームカつく子供ができんのよね」
「まぁ、母親も人間ってことだろ。反面教師にさせてもらおうぜ」
「いやしかし武兄の演説のまた自分勝手な事。あんな理論で卒論大丈夫なの?」
「うるせー。誰だって自分ちの子供が可愛いのは当然だろが」
「まー確かにあそこの子よりは広中の方が顔はいいわよね。父さんも母さんも学生時代はそこそこモテてたらしいし」
「へーそうなんだ」
「でも父さんは、母さんが防波堤になってたからモテてるって全然気付いてなかったんだって」
「あーらしいなそれ」
「でしょ?」
そう言って笑う声さえも、今は僕の中に響いてきた。
兄も姉も、僕が学校で孤立している事に気付かなかった。
当然だ。
僕が自身がそれをひた隠しにしてきたのだから。
心配をかけたくなかった。
わずらわせたくなかった。
いやそれよりも、いじめなんかを受けている子なんだと思われたくなかった。
見下されたくなかった。
だからずっと隠してた。
兄達が僕の事をわかっていないんじゃなくて、僕が、兄達に全てを見せていなかったんだ。
馬鹿にしていた。
嘲笑していた。
そんな自分が、ひどく愚かに思えた。
こんなに信じてくれていたのに。
こんなに愛してくれていたのに。
疎外されていたんじゃない。
感じた隔たりは、僕が自分で築いたものだったのだ。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
しゃくりあげながら、僕は言った。
とても言葉にはなっていなかったけれど。
ごめんなさい。
ありがとう。
お兄ちゃんとお姉ちゃんの弟に生まれてきた事を、僕は今、神様に感謝する。
月が出ていた。
それは、僕がこれまで見たなかで一番きれいな月夜だった。